忠義と武士道に生きた軍人・乃木希典
「乃木坂」と聞くと皆さん何を思い浮かべるだろう。
東京都に住んでいる人やよく行く人なら東京メトロ千代田線にある、港区の一等地でもある「乃木坂駅」
あとは女性アイドルグループの「乃木坂46」
最近元乃木坂の人が俳優と写真撮られてましたね。世界一嫌いな話題が芸能人の不倫と熱愛と結婚と離婚と訃報なのでしらんけど。
「乃木神社」なんてのもあります。
そんな乃木神社や乃木坂46の元になったのが乃木希典。
1849年12月25日に長州藩の小さな武士の家に三男として生まれる。
父親は武家の男なのでとても厳しく、真冬に希典少年が「寒い」と駄々をこねた時には「寒いなら暑くしてやる」と言って外に連れ出し冷水をぶっかけるような父親であった。
今「ただの虐待じゃん」と思った人は正解なんだけど時代が違うんだなと思って下さい…
もともと身体も細くてひ弱な性格だったため、すぐに泣いてしまう少年だったが武士の子供として様々な教養を学んだ。
その中で学者の道に進みたいと思い、父に相談するも、父は武士になることを強要。
何と家出をしてしまう。
そして行くあてもなく歩き続けて辿り着いた家は父親とも縁戚の学者であった。
彼に「勝手に家を出てくるとは何事だ。武士が嫌なら農民になるしかないぞ」と叱責された希典少年は「農民は嫌だなぁ…でも武士も嫌だし…」と思いつつ、彼のもとで農作業や剣術をして過ごす。
何だかんだで軍人になるのは幕末の頃、世間では江戸幕府が二度目の長州征伐を企て、対する長州藩は薩摩藩と薩長同盟を結んで対抗していた頃だった。
希典も藩から呼び出しを受け各地で幕府軍や幕府方の諸藩の兵士と戦った。
そして軍人としてのキャリアをスタートした乃木は明治維新以降は新設された軍隊に正式に入隊する。
彼の最初の転機になったのは1877年に勃発した西南戦争への出陣であった。
この時、西郷隆盛率いる薩摩軍との激戦で乃木は敵に軍旗を奪われてしまう。
当時、軍旗は錦の御旗、つまり天皇それ自体であると考えられており、つまり天皇を賊軍に奪われたということで重大な失態と考えられていた。
軍人としては功績をあげたわけであるが、この軍旗を奪われたことを恥じて乃木は自害を決意する。
この時に乃木に自害を思い止まるよう説得したのは他でもない、明治天皇であった。
「乃木よ。死んではならぬ。お前の命、朕に預けてはくれぬか」と必死に説得したという。
これは乃木の生涯に多大なる影響を与えた。
そして日本は当時の欧米列強による植民地奪い合いの中で近代的な軍隊を作り、憲法や法律を作り、国内の整備も進めていよいよ世界史の転換点である日清戦争、日露戦争へと突き進んでいく。
この間に薩摩藩藩医の娘として生まれた静子さんと結婚して2人の男の子が生まれている。
静子さんはまさに薩摩の女で夫を立てて家を守り、気丈で聡明で美しい女性であった。
話を乃木に戻すと、1892年に勃発した日清戦争では朝鮮半島にある旅順で清王朝の軍を撃破している。
圧倒的兵数の清国軍に対して乃木は寡兵を持って僅か1日で陥落させる武功をあげる。
その後も数々の戦いで功績をあげ、評価も上げたわけだが、後述する日露戦争ではこの旅順要塞の短期間での陥落が彼を苦しめられることになる。
そして二度目の運命を決めたのが、まさに先述した1904年に勃発する日露戦争であった。
乃木は中将として第三軍の司令官として出陣。
攻略目標は以前日清戦争にて陥落させた旅順要塞であった。
この時清王朝は日清戦争で弱体化し、欧米列強は「眠れる獅子だと思っていた清王朝がたかがジャップに完敗するとは太った豚であったか」と次々に領土を分割占領していた。
ちょうど映画「ラストエンペラー」の冒頭シーン手前くらいの時期と考えてもらうといい。
西太后はまだ健在だが、各地で反乱が起きそうな気配を感じさせている時代になる。
そうした背景もあり、旅順もロシアの手に渡っていた。
ロシアの猛将ステッセルはこの旅順に堅剛な要塞を構築。
当時最新鋭でなかなか出回っていない兵器であった機関銃やガトリング砲をこれでもかと敷き詰め、コンクリートの防壁や有刺鉄線を張り巡らした。
ステッセルは「100万の軍勢でも落とせまい」と豪語した。
この時、大本営は「以前日清戦争で1日で陥落させている乃木ならば今回も楽勝だろう」と油断し切っており、乃木にもほとんど情報が与えられず、また物資や兵器も多くを回されなかった。
しかし現場で旅順要塞がまるで変わっていることに驚いた乃木は援軍や追加の兵站を要請した。
しかし、旅順要塞があることで日本海に船が浮かべられない海軍は執拗に「さっさと旅順を攻撃しろ」と陸軍に詰め寄った。この時から海軍は文句だけ言って陸軍に汚れ役を着せるのが得意だったようだ。
乃木は仕方なく、旅順要塞の正面突破を試みて総攻撃を仕掛ける。
が、丘の上からは機関銃やガトリング砲の雨が降り注ぎ、有刺鉄線を張り巡らせた陣地は攻略が難しく、多大な犠牲を払って攻略は失敗した。
なお、のちの総攻撃でも失敗はしているものの、司馬遼太郎の言うようにイタズラに精神主義で正面突撃をしたのではなく、穴を掘り進めて地下から攻撃を仕掛けたり、十分な砲撃を加えた上での総攻撃であったりと史実は意外と理論的だったようだ。
しかし、そんな奮戦虚しく三度目の総攻撃も失敗してしまう。
徴兵された兵隊の戦死、それに引き換えまったく進まない旅順要塞の攻略。
「君死にたまふことなかれ」という弟の戦死を憂いた与謝野晶子の「みだれ髪」が発表されたのもこの頃だった。
国民の怒りは乃木に向けられ、彼の私邸には石が投げ込まれ、「切腹しろ」という誹謗中傷の手紙が多く寄せられた。
この3回の総攻撃の中で乃木の長男・勝典と次男・保典が戦死した。
2人の戦士の報を聞いた乃木は口では「よく戦死してくれた。これで世間様に面目が立つ」と言ったが、やはり父親だったのだろう。
涙を隠すように蝋燭を吹き消したというエピソードがある。
妻の静子さんも最初に長男勝典が亡くなった時こそ涙を流したが、次男保典が亡くなった時には気丈に振る舞った。
大本営の中でも「乃木を更迭すべきではないか」という意見が主流になった。
しかし、ここでも乃木を庇ったのは明治天皇であった。
明治天皇は「乃木を変えてはならぬ。もしここで乃木を変えたらおそらく自害をするだろう」と彼の続投を支持した。
またも明治天皇に救われた乃木は、攻撃目標を旅順要塞の重要地点である203高地と呼ばれる丘に決定。
最もロシア軍の守りが固い203高地の攻略決定で大本営もようやく事の重大さに気付き、乃木の盟友で戦略のプロである児玉源太郎を派遣して、最新式の大砲を送った。
そして乃木と児玉という2人の名将が指揮を取り、激烈な攻防の末、ついに203高地を攻略。
203高地を奪われたことでロシア軍は総崩れして、旅順要塞はついに陥落した。
この時、乃木希典の人柄を表すエピソードとして「水師営の会見」というのがある。
今もそうだが、戦争になると世界各国のジャーナリストやカメラマンが従軍記者、従軍カメラマンとして同行する。
日本人だと有名なのは従軍カメラマンの宮嶋茂樹氏や渡部陽一氏であろう。
アメリカ人従軍記者が「乃木将軍。旅順陥落の様子を本国に伝えたい。乃木将軍と敵将ステッセルの写真を撮って記事にしたい」と申し出た。
当時は負けた敵の指揮官達を地べたに座らせていかにも勝者と敗者というように世界にアピールするのが欧米列強のやり方だった。
しかし、乃木は「例え敗軍の将といえどそのような恥をかかせるわけにはいくまい」と言って断った。
それでも一枚だけ写真がほしいと食い下がる従軍記者の熱意に折れた乃木は一枚だけ写真を許可するが、その様子にアメリカ人記者だけでなく、世界中が目を見張った。
これがその写真である。
先ほど書いたように、当時は敗軍の指揮官達は軍服を脱がされ、地べたに座らされていかにも「敗北者です」と言ったような待遇が当然だった。
しかし、乃木は負けたロシア軍の指揮官達にも軍服の着用と帯刀を許し、まるで同盟国と撮るように撮影した。
まさに武士道精神に生きる乃木を表すエピソードだ。
ステッセル将軍はのちに奉天会戦でも乃木率いる部隊と交戦して敗北。
ロシア皇帝ニコライは激怒して「ロシアが破れたのはお前のせいだ」と罵り、極刑を言い渡した。
ロシア国民も怒りに燃えてステッセルの家には投石が頻発し、家族も標的にされた。
そのステッセルの助命嘆願のために毎日毎日手紙を書き続けたのが乃木だった。
敵将、しかも勝者であるにも関わらず毎日毎日必死になってステッセルの助命を願う乃木の姿勢に心を打たれたニコライ皇帝はステッセルへの刑を禁錮に引き下げさせた。
それでも大黒柱を失ったステッセル一家は貧困に陥った。
そんな残された家族へ乃木は毎月お金を送り届けた。
明治天皇に救われたように、乃木もまたステッセルとその家族を救ったのだった。
乃木の活躍もあり、有名な日本海海戦の大勝利も経て日本は何と世界の大国ロシアに勝利した。
日本がロシアを破ったニュースは世界中を駆け回った。
世界の大国であり世界最強の陸軍と「海の狐」と言われた海軍を持つロシア帝国が負けただけでも大ニュースだが、それを破ったのがアジアの小国でつい少し前までちょんまげに刀を差していた日本だったのがさらに衝撃だった。
例えるなら、地元のリトルリーグの少年野球チームがニューヨークヤンキース相手に公式戦で勝ったようなものだ。
そして一番の衝撃は「黄色人種が白人を倒した」というこの事実であった。
インドのネール、ビルマ(現在のミャンマー)のアウンサン、中国の孫文や蒋介石、そしてフィリピンもインドネシアもタイも多くのアジア諸国で欧米列強の悪烈な植民地支配からの独立に燃える若者達に火を付けた。
映画「RRR」もそんな「我々も日本がロシアを倒したように、団結して大英帝国を追い払うぞ!」と志を持ったインドの若者達の物語だ。
「日本がやった。我々も日本に続け」「日本から学ぼう」と時には密入国をしてまでも日本へやってくるアジアの革命戦士が溢れた。
この時にインド人のラースビハーリーボースも日本に亡命して、中村屋に匿われ、その恩としてインドカリーを伝授。
これがのちの「中村屋のカレー」である。
話を戻す。
日露戦争の大勝利と旅順要塞陥落でつい昨日まで乃木を批判していた大本営のお偉いさんもメディアも国民も手のひら返しで乃木を軍神として持て囃した。
それでも乃木の心には旅順攻略戦で多くの若者達を死なせてしまったことへの後悔が渦巻いていた。
それを察知したのか明治天皇は「乃木に学習院の校長という役職を与えてやろう。乃木は子供を失ったので、若者達に囲まれる仕事をさせるのがよい」と学習院校長の役職を与えた。
そして乃木に「生徒達をお前の子供だと思って指導してくれ」と命じられた。
学習院は今でも皇族の方が通われる学校だ。
当時は皇族の他にも華族の子供などの身分の高い子供達が通う学校であった。
そんな乃木校長の学習院にのちの昭和天皇である裕仁親王殿下がご入学された。
乃木は例え親王殿下であっても他の生徒と同じように公平に、そして厳しくも優しくあたたかく指導した。
ある時裕仁親王殿下が車で通学されているのを見た乃木は「他の生徒が歩いて登校されているのに車で登校とは何事ですか」と叱責し、親王殿下は次の日から歩いてご通学なされた。
服がほつれてしまったから新しいのがほしいと言った時には「縫えばまた着れます」と指導した。
乃木の厳しくも優しい指導は裕仁親王殿下にしっかり届いており「校長閣下」と呼んで慕っていた。
昭和天皇となったあと、記者から人格形成について聞かれた時には乃木から教えられたことが一番の影響になっていると述懐なさっている。
そして1912年、明治45年7月。
以前から体調を崩されていた明治天皇がついに崩御なされた。
それでも乃木は残された裕仁親王殿下はじめ学習院校長として気丈に振る舞った。
1912年、大正元年。
明治天皇の大葬の礼が執り行われる。
学習院院長として本来はその場にいなければならない乃木は自宅にいた。
有名なこの写真を撮ったのはその時だ。
そして大葬の礼の儀式のひとつである砲音を聞きながら、妻静子さんと共に切腹して亡くなられた。
享年62であった。
西南戦争で明治天皇に命を助けられた日から、乃木はひたすらに明治天皇のために生き、そして死に場所を求めていた。
そんな乃木の辞世の句は
「うつし世を 神去りましし大君の みあと志たいて我はゆくなり」であった。
まさに死ぬまで江戸時代までの象徴であった武士道精神と忠義の精神を体現されていた人だった。
乃木の死をお聞きになられた裕仁親王殿下は呆然としてしまい、涙を流された。
新人の軍人として指導を受けたこともある阿南惟幾も号泣したと言われている。
乃木希典殉死の報を受けて、芥川龍之介や森鴎外、武者小路実篤といった作家は「前近代的だ」と批判した。
後年、司馬遼太郎も乃木の殉死や旅順攻略戦での正面突撃を「悪しき精神主義の象徴」としてこき下ろしている。
今を生きる大半の日本人もそうだと思う。
だが、わたしはそうは思わない。
彼の生き方こそ、我々が失ってしまった日本人としての正しい生き方なのではないか。
乃木は若い頃は芸者遊びや料亭通いが好きだったが、その後ドイツやフランスへ留学後に「軍人とは何たるか」を発表したのち、自分自身がその生活をしなければならないと料亭通いも芸者遊びもやめ、質素な食事や暮らしをし続けた。
昭和天皇はじめ教え子にも常に民衆と同じような生活を心がけ、贅沢せず、忠君愛国の精神を持ちなさいと指導した。
明治維新や文明開花の中で、豊かな生活と便利な暮らしを手に入れた我々が失ってしまった日本人の誇りや武士道精神、そして忠義の精神を乃木は体現し続けた。
現代に生きる我々も彼から学ばなくてはいけないと思う。
今回、わたしが近現代史の中で特に好きな人物である乃木希典について書いた。
また次回もご覧ください。
最後に乃木に関するおすすめの本や映画を…