長編小説「ひだまり~追憶の章~」 Vol.2-④
~雪解けの春@白馬八方尾根~
Vol.2-④
半年分の荷物と、スキーの板やブーツを宅配便で送り出す手配をして、私は厨房へ入って行く。宿泊客も他の居候も居ないので、家族の分だけの遅い朝食を作っている女将に、私は声をかける。
「女将さん。ほな、そろそろ帰ります」
エプロンで両手を拭いながら、女将は振り返る。
「ぁ、もうそんな時間❓」
「ええ。名古屋廻りでゆっくり帰ります」
「それじゃあ、岳彦に駅まで送らせるから、待ってて」
「あっ、いいですいいです。岳彦さん、オーストリアから帰って来はったばっかりで、ゆっくり休みたいでしょうし」
「いいのよぉ。美雪ちゃんの為だったら、あの子飛び起きるわよ。待ってなさい」
言うが速いか、女将は別館の住まいへといそいそ駆け出した。
もう50代も半ばという宿の女将の足取りではない。客商売をしているせいか女将は気が若く、都会育ちなので居候達にもウケが良い。元デモンストレイターである旅館の主人も、彼女の気立ての好さとテキパキ仕事をこなす所を見初めたのだろう。
自分ドリップしたコーヒーを厨房で味わっていると、まもなく谷沢岳彦がのれんをかき分けて入って来た。二日酔いが抜け切っていない面持ちだが、笑顔で私に話しかける。
「おはよう」
「おはようございます」
「悪いけど、僕にもコーヒー入れてくれる❓」
「わかりました」
私はドリップペーパーを新しい1枚に取り換え、ポットのお湯をミルクパンで沸騰させ始める。その間に谷沢は温かい味噌汁を自分で丼鉢に注ぎ、一気に飲み干した。
「ああ、、、やっぱ呑み過ぎた次の朝は味噌汁だよ。それと、美雪ちゃんのたてたコーヒーだね」
「ありがとうございます」
「コーヒー飲んだら、駅まで送って行くから」
「無理しなくってもいいんですよ❓」
「無理してないよ。それに美雪ちゃんの為なら無理もしたいんだよ。来シーズンも来るんだろ❓」
私は答えを渋った。
就職してしまうのだからもう居候は出来ないのだが、谷沢は暗にいずれ自分のフィアンセとしてここに永住して欲しい事を告げているのだ。今シーズンもどこかへ連れ出す度に、『待っているから』と私の決心を促していた。
谷沢の人柄は好きだ。けれど、恋愛感情とは違う。
その事を何度か釈明したのだが、谷沢は『俺の気持ちは変わらない。色んな事が美雪ちゃんの中で吹っ切れるまで、待っている』と、態度を変えない。京都に戻ったら恋人が居ると告げても、
『俺の方が本当の美雪ちゃんを知っている。街に住んで働いてる君は仮の姿だ。どんなに綺麗に着飾ってる時よりも、白馬に居る時の笑顔が君らしいし、イントラやってる時のユニフォーム姿の方が、本当の美雪ちゃんだ』
と、相変わらず聞き入れない。
そして連れ出した先で、地元の人達の公認にしようとしたがる。
弘也と別れた今となっては、すんなり谷沢の好意に飛び込んでも良さそうなものだが、私はまだ踏ん切りがつかない。谷沢のフィアンセに成るという事は、いずれは旅館『やざわ』の若女将に成るという事だ。
ただ「好いた惚れた晴れた」だけで快諾できるような業界ではないのは、毎日女将の様子を眺めていると理解る。私の将来も、そこで限定されてしまう。その事が引っかかっているのだ。
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