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今日もおあずけ


 黒目の周りに水色の輪っかが見えた。窓からの光で色を淡くした瞳を、守るように張られた膜。瞬きのたびに見え隠れするそれに、視線が吸い寄せられる。
 コンタクトだったんだ。新しい発見に、胸の底から喜びが湧き上がる。家では眼鏡なのかな? 丸いの? 四角いの? フレームは何色だろう? でも、きっとどれも似合うに違いない。想像しただけで頬が緩んで、唇が笑みの形をとる。
 いけない、集中集中。心の中で言い聞かせ、近づいてくる彼の顔へと意識を向ける。吐息がかかりそうなほどの距離。恥ずかしさで顔を逸らしたくなる気持ちを、ぐっと堪えた。
 横たわった距離がゼロに近づいていく。彼と私が別々の個体である証。知人でも友人でも無くなったりしないもの。それが徐々に消えていくことに、喜びが込み上げる。照れも恥ずかしさももちろんあって。でも、そんなもの、嬉しさできれいに塗り替えられてしまう。

 肩に置かれた手から緊張が伝わってくる。珍しいな、なんて他人事みたいに思ったけれど、私だって同じ。もうずっと、心臓は爆発しそうなくらい脈打ったまま。グラウンドから聞こえるはずの運動部のかけ声も、合唱部の歌声も、今は何も聞こえない。鼓膜を叩くのは、自分の心音だけ。
 垂れがちな目を囲む睫毛、一本一本さえ鮮明に見える。意外と睫毛長いな、なんて思ったそのとき、彼は勢いよく顔を背けた。私の肩から手を離すと、そのまま二、三歩後ろに下がる。
 突然広がった距離に、寂しさよりも驚きが襲ってくる。戸惑いで何も言えぬままいれば、彼は急にくるりとこちらに向き直った。睨むような目付きに、思わず肩が震える。けれど、その目尻が赤く染まっていることにすぐに気づく。

「あー難しい!」

 唐突な一言。けれど、何を指しているのかわかってしまった私は、つい吹き出してしまう。

「あ、笑ったな」
「だって……」
「言っとくけど、佐和だって悪いんだからな?」

 今度は何のことかわからなかった。震えそうになる声で「何が?」と聞き返す。すると彼は、何事かをぼそぼそと呟いた。上手く聞き取れなかった私は、もう一度尋ね返す。

「だから! ……佐和が、その、ずっと目開けたまんまでいるから」

 恥ずかしくなるじゃん。後ろにいくにつれ、小さくなっていく声。最後の方はもう消え入りそうなほど。でも、それはきちんと私の鼓膜を震わせた。可愛くて、おかしくて、また笑いが込み上げてきてしまう。

「あ、また笑った!」
「だって、秀がらしくないこと言うから」

 そう言えば、彼は唇をさらに尖らせた。くちばしみたいだったそれは、だんだんへの字に姿を変えていく。怒らせた? と思ったところで、彼がおもむろに口を開く。

「……なんか、余裕そう」
「え?」
「俺ばっか緊張してるっていうか、気合入れてるっていうか」

 気合入れてたんだ。驚きで思わず繰り返してしまう。それは小さな声だったけれど、彼の耳にはしっかり届いたらしい。垂れた目に、射抜くような鋭い光が宿る。だけど、真っ赤に染まった顔では、怖さも半減以上。むしろ可愛さしか残らない。襟元から見える赤い首筋も、それに拍車をかけているみたいだ。

「なんか失礼なこと考えてるだろ?」

 じとりと睨めつけながら彼が聞く。癖毛から覗く赤い耳に、ちょうど頬を緩ませそうになっていた私は、慌てて首を横に振る。

「怪しいなー」
「ほんとほんと。しつこい人は嫌われるよ?」

 嫌わないけど。心の中で付け加える。声にしなかった言葉は、なのになぜか彼に伝わったらしい。慌てた様子もなく、片頬を上げた。

「何よ、その顔」
「別に?」

 そう言いつつも彼はにやついたままで。なんだか無性に腹がたって、ブレザーの上から腕を叩く。結構力を入れたつもりが、響いたのは変なくしゃみみたいな音で。堪えかねたように彼は声をたてて笑う。

「もう! 何よ!」
「いやだって、ひ弱にもほどがあるだろと思って」
「じゃあもう一回やるから、腕出してよ」

 やだよ! そう言って彼は、腕を庇うようにしながら後ろに下がる。私が一歩進めば彼が一歩後ろに。また一歩進めば後ろに。それを繰り返して、そうするうちに何だかおかしくなって。どちらからともなく笑いだした。

「もうさ、なんか、全然だな」

 ひとしきり笑って、笑いすぎて頬が痛くなり始めた時、彼がぽそりと呟いた。夕日に照らされた瞳は、いつもより垂れて見える。

「今日こそはって言ってたのにね」

 な、彼が短く返す。時計を見れば、もう十八時になろうとしていた。完全下校時間まであと少し。今日もやっぱりだめみたいだ。
 すぐ側の机に置いてあったリュックを彼が持ち上げる。黒い背中が青で覆われるのを見て、私も慌ててスクールバッグを肩にかけた。

 机の間を縫い、ドアへと向かう背中を追いかける。そうして彼は、廊下へと続く引き戸に手をかけたところで、こちらを振り返った。
 少し高い位置にある瞳を見つめながら、私は小首を傾げる。忘れ物だろうか、と思ったところで、彼の右手が私の左手を取った。突然重なった体温に心臓が飛び跳ねる。

「……今日もできなかったけど、手くらいは」

 言い訳のように呟いて、彼はそのまま前へと向き直る。
 立て付けの悪そうな音をたててドアが開く。廊下へ出ても、彼は手を離そうとはしない。繋がった手と手が、二人の間でゆらゆら揺れる。右へ左へ。左へ右へ。振り子のようなそれに、唇が自然とほころんでしまう。
 癖毛の中の小さな耳が目にとまる。赤く染まって見えるのは、夕日のせいか繋いだ手のせいか。
 私のせいならいいな。そう思いながら、速くなる鼓動のまま、足を大きく踏み出した。