ファンレター
人は一生のうちに何度書くのだろう。全国平均を知りたいところである。
切手を貼り、ポストへ投函という「ザ・ファンレター」の形式を踏んだのはいつ以来だろうか。
赤い色して佇むあの子の前に立ち、差出口に視線を合わせる。「無事に届きますように」と念を送る心理や、手放すときの微かな名残惜しさは何なのだろう。
経験上、ファンレターを書く際の心情は2タイプに分かれていた。
ひとつはお相手の活動への感想等をしたためつつ、「少しでも自分の思いが記憶に残ってくれたらいいな」という本音を大量に注入するタイプ。
もうひとつは、したためるという奥ゆかしさよりも、衝動が勝ってしまうもの。過去2回ほど、暫く経ったのちに悔やみきれない羞恥心であたふたすることになったので、もうしない。
そして今回。ニュータイプが誕生した。
とにもかくにも、お礼を申し上げたい。
長い間、この思いは忘れることなく自分の中にあり続けていた。
お手紙をお送りさせて頂いたその方を初めて知ったのは、10年以上前のこと。なんだか気になる雰囲気を醸し出していた。偶然見ていた番組に出演されていると妙に嬉しくて、自然と視線がそちらに向いていた。
心がぐんと動いたのは、淡々と、しかし深遠に似た境地を紡いだ言葉に触れたときだった。
遡ること4年前。当時の私は、切り込むべき大切なことに対しての勇気が足りず、心の中で勝手にマイナス方向へ舵を切り、ますます踏み出す機会を逃していた。誰かに頼っても解決には至れないことだった。
そんな状況で偶然出会った「言葉」に、目を見開かされた。
曲がった舵を修正しなければ進展は見込めない、と改心することができた。
背中を押してくださったことへの感謝を、いつかお伝えしたい…
随分と温めてしまったが、4年経過し、ようやく機が熟したのだと思う。
所属事務所のサイトからファンレターの宛先を調べ、手持ちの中で失礼に当たらないと思われる便箋を選び、いよいよペンを執った。
手帳に、
・お忙しい方である
・個人的過ぎる内容は避け、なるべくわかりやすくまとめる
・心を落ち着かせ、丁寧に綴る
と注意事項を走らせた。こういうことを書く時点で落ち着いていない。
手紙を差し出すお相手のことは勿論大好きで、心の恩人と勝手にありがたく思い、尊敬の念を抱いている。だがその方の出演されている番組をすべて追いかけることはできていない。むしろ自分が深く興味を持った内容に傾いて楽しませて頂いている。
ん、私ファンなのか?
…先週の○○での△△コーナー、最高でした!☆☆では意外な一面が見られて嬉しかったです!あの方とのやり取りが絶妙で、Tverで何度も※%¥@*♬Ψ……
無理に羅列しようものなら、ビジネスファンレターになってしまう。
待てよ、そもそも「ファン」の定義そのものがあやふやではなかろうか。
特定の方の、どの部分に共鳴するか。
作品、キャラクター、発言、それらから垣間見える(と、想像する)人柄…
どこにピントが合うかは、十人十色だろう。
「ファン」というふわっとした概念に沿わず、自分の視点をぼやかすことなく、本当の私に近い言葉で表現しよう。あの方は、独自の価値観でこちらに目線を合わせてくださるはずだよ、きっと。うん、きっとね…
という信念のもとに書いた結果、生来の根暗でめんどくさい性質と、およそ40歳とは思えない不器用な生き方が露呈された。長くなりそうな締めのご挨拶に焦り、どうにか便箋の枚数を増やさぬようにと努めたところ尻つぼみのエンディングを迎えた。
仕方ない、それが今の私だ。
宛先とお名前を書き、封をした。
「梅雨明けしたのにジメジメしてるなぁ!」等ツッコミをひとつ頂戴できたなら、これ以上幸せなことはない。
手紙を書き上げ沸き上がった感情は、浄化に似たものだった。
4年前の出来事を文字に起こし、伝えるという行為をした時点で、ひとつのプロジェクトが完結したような心境になった。また、当時の状況を自分自身に開示することで、忘れてはならない思いが次々と蘇った。
身近な人を大切に思うには、自らの心身を一方向に偏らせず、バランスよく操縦していくことが責務。身に染みていたつもりだったが、今尚トリセツ製作中ということにも気づけた。
交わしたい思いや、感謝の念は鮮度の高いうちに伝えたい。躊躇わずにいられるための余裕を、自分に持たせてあげられるようになりたい。
おそらくこの先交わることのない方へ書いた手紙が、過去の体験と今を結びつけた。
著名な方へもリアルタイムでメッセージを送れる時代。だからこそ、秘匿性が担保できる「手紙」というツールで打ち明けることに、価値と意味を見出せそうな気がした。
ファンレターは、霧に向かって引いた糸電話のようだ。そのため妙な安心感が生まれたのか、書き進めるうち調子に乗り出し、フランクな文体が混ざってしまった。またお送りさせて頂く機会があれば、留意すべき事項と心得ておこう。
糸電話の向こうにいるはずの方は、日本中から注目を集めている。
共感、憧れ、投影…様々なフィルターを日常的にかけられている。
応援、と一口に言ってもそれは目に見えないものが大半であり、時には相手に負荷をかけてしまうものにもなりかねない。
不確かで、流動的で、ある意味身勝手で、巨大な。
そんな残酷な渦を横目に、あの方はご自身の感覚に噓をつかず、世の中を渡ろうとしているように見える。これも私の立派な妄想。
ただ、そう映る今の姿が徐々にモデルチェンジを図っても、きっとその過程を楽しませて頂けるような気がする。
素性、生い立ち、すべての活動。
無理に知ろうとしないから、そう思える。
同じ世界に生きているという錯覚を起こさぬよう、大好きな方とはコンクリート壁を一枚隔てた場所にいたい。そんな省エネ型の応援が、今の私には向いている。なんなら応援や期待という言葉を封印し、「大好き」の一本槍を貫こう。そんな境地のなか、きっとこれからもテレビの向こうの活躍に爆笑でお返事する。
手紙の終盤で、同じワードを何度も出していることに気づいた。
不惑40代にはちょっと青い、「生きる」。
トリセツも完結もないプロジェクト、to be continuedだらけの宇宙に、ようやく招いてもらえそうかなぁ。
この手紙を読んでもらいたかった相手は、私自身だったのかもしれない。