「分かれ道——フェミニズムとハンマーの共鳴性」(「現代詩手帖」2023年3月号)の注釈について

「現代詩手帖」2023年3月号のクリティーク、「分かれ道——フェミニズムとハンマーの共鳴性」について、註釈に書いたことを以前Twitter(https://twitter.com/izumiitsumiki/status/1630830664932286464?s=46&t=WW40BbnnaFBDVtAK97VfHQ)とマストドン(https://fedibird.com/@aomoto_y/109947229279217244)に投稿したのですが、ツイートやトゥートに書いたことは散逸しやすいため、掲載誌の発売からかなり時間が経ってしまいましたが少し補足しつつあらためてnoteにまとめます。

註釈について書く前にあらためて強調しておきたいのが、「分かれ道——フェミニズムとハンマーの共鳴性」はまずひとつにはトランス差別に抗するために書かれた文章であることです。そして、フェミニズムをめぐる運動のなかで、ノンバイナリーなど「女性」でないところに自らをアイデンティファイする人たちが疎外されていることを批判・可視化し、疎外や周縁化を回避しつつインターセクショナルなフェミニズムに必要な連帯を結ぶためにどのような了解が必要であるかを示すこともまた目指されていたことでした。フェミニズムのうちに潜む/潜みうる排除性とトランスジェンダー差別は地続きの問題だからです。

註釈に書いたのは主に文章の大きな流れから本文に組み込むことが難しかったけれど、インターセクショナル・フェミニズムについて考えるうえで
注釈として読まれる状態にしておきたかった事柄です。基本的に註釈の順番に沿っていますが、註1に対応する内容関しては最後になっており、書誌情報を示すのみのものはスキップしています。

①注釈で「ハンマーの共鳴性」をAジェンダーのトランスとして共時的に読み解く文章として、夜のそらさんのブログ(https://t.co/ZNOw0j1SeX) に触れました(「現代思想」2022年5月号の藤高和輝さんによる全訳の訳註でも紹介されています)。「ハンマーの共鳴性」が書かれた背景についてもかなり詳しいです。
夜のそらさんのブログを紹介したのは、記事の詳細さもありますが、なによりもハンマーを手に持って規範を削り返していた人のひとりとして夜のそらさんのことを書きたかったことによります。Aジェンダー・Aセクシュアルという何重にも不可視化されるアイデンティティについて、日本語で書かれており、かつ、アクセスが容易である数少ない文章のひとつでもあります。わたし自身もそれに勇気づけられたひとりですが、夜のそらさんのブログを読むことがハンマーで規範を削り返す別の誰かと出会うことになる人は少なくないのではないかと思います。
夜のそらさんのnoteのリンク→ https://note.com/asexualnight

②インターセクショナリティがブラックフェミニズムから出てきた概念だということ。このことを抜かしてインターセクショナリティの概念を利用することも可能であるように見えるかもしれませんが、フェミニズムを歴史の連続性のなかで語る立場からそれをすることは簒奪ではないかと思うので書いています。


③排除に至ったフェミニズムを「フェミニズムでない」として切り離すことの問題について。これは藤高和輝さんの、フェミニズムはフェミニズムの歴史を引き受けつつ自己批判によって自らを更新していくものだという旨の主張を受けたものなのですが、この主張の重要なもうひとつの側面は、つきつめれば、トランス排除などのフェミニズムから発生した排除的な側面をフェミニズムから切り離してはならない、という地点に至ることにあります。

排除的な側面をフェミニズムから切り離すことは、フェミニズムの内部での自己批判を不可能にして、結果としてフェミニズムの内部に排除や疎外を温存してしまうことに繋がります。フェミニズムも間違うので、無謬性を前提にしてフェミニズムを擁護するとその誤りを肯定することになってしまう、ということでもあります。

④ハンマーの共鳴性(an affinity of hammers)のaffinityの訳語について。引用含めて、「類縁性」と「共鳴性」のふたつの訳語が登場しますがいずれも藤高和輝さんによる訳語で、前者は『〈トラブル〉としてのフェミニズム』の、後者は「現代思想」2022年5月号の「ハンマーの共鳴性」全訳のものです。

時系列的にいえば「類縁性」→「共鳴性」で、藤高さんの訳語の変化とも捉えられるのですが、あえてそう捉えずに、ダナ・ハラウェイが「類縁性(affinity)とは血縁ではなく選択によって関係性をもつこと」とした文脈を継ぐ「類縁性」の訳を選択したときに押し出される側面も拾うことを試みました。

「共鳴性」の訳(これはかなり大胆な意訳ではあります)のほうが、他者とのつながり方としてそれを提示するアーメッドの文章にふさわしいようにも思われるのですが、一方でアーメッドもまた同質性による連帯を否定する立場を前提としており、「ハンマーの共鳴性」は努力して獲得しなければならないもので、それは「選択的な関係性」である「類縁性」のほうがよく拾うことができるように思われます。アーメッドのいうaffinityは「共鳴性」と「類縁性」のそれぞれが拾うものの間にあるのではないか、ということです。

⑤最後に、冒頭にある開示について。わたしはそれでよかったのか未だに迷っています。脚注で釘を刺すことはしましたが、すでに別所でも書いたこととはいえ、開示のうえでそこに基づく主張を始めることは、他の書き手に対して開示せよ、そのうえで書けという圧力を発することにつながりうるからです。

フェミニズムにおいても人がそれぞれ規範のなかでばらばらに配置され、その位置をつかみ取り/直しつつ語っている、というのは見過ごせないことですが、同時に置かれた位置だけが問題になってはならない。それは「女」をフェミニズムの主体とすることの根底にあるものと同じだからです。

最近のことでいえば、女性を生きるフェミニストのミサンドリーを男性が生きる人が指摘したときに、ミソジニーの反省のみをしていろ、というように返されること、これも規範のなかで置かれた位置だけが重要視されている事例です。

フェミニズムの主体は「女」であるとまでも言わない人のなかにも、規範のなかで置かれた位置の問題を最優先に考える人も少なくないなかで、開示をしなければ説得的なものとして読まれないのではないか、というおそれによって開示は書かれました。でもそれは同時に、あの文章でそれをすることは戦うべき前提に乗ってしまうことではなかったのか、ということ。(おわり)

〇noteでの追記
「分かれ道——フェミニズムとハンマーの共鳴性」では「アイデンティティを『もつ』」という表現を徹底的に避けて「アイデンティファイする」という表現を選択しています。
これは、「アイデンティティを『もつ』」という表現が、アイデンティティがしばしば現状の規範や自らが感じる適合性ないしは違和との関係から時間をかけて選び取られるということを覆い隠しうる表現——アイデンティティ/アイデンティファイの時間性を捨象してしまう表現——だからです(規範から疎外されるところにみずからをアイデンティファイする人たちは自分の経験を振り返ることを通じてこれを認知する人が多いように思います)。
ここでもうひとつ書いておきたいのが、アイデンティファイするということは必ずしも積極的に行われる行為ではないということです。非-規範的な性を生きる人たちはしばしば規範の側からみずからが位置づけた場所を「説明」したり「定義」することを求められます。
したがって、性別がないと感じる人たちが自らが位置するところとしてノンバイナリーやAジェンダーを提示するとき、それは必ずしもその人たちにとって十全にフィットするものではないこと、定義や説明の外圧によって選び取らざるを得なかったものである可能性をそれを受け取る人たちは念頭に置いておく必要があるように思われます。


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