ことのね(4)言の葉
波ノオトというタイトルで少しノートを書いていたが、書いているうちにどうやら自分は起源とか源流というものが気になる質だということが分かったので、本テーマ自体は名前を変更して「ことのね」というタイトルを当てることにした。元の波ノオトは雑記的なものを書いていくとして改めることにしたい
言葉の語源
「言の葉」
言葉を漢字で書くと言の葉と書く。この「葉」はなんなのか?ふと思った。
日本語の語源はそれほど研究されているものでもなく民俗学的な文化伝承を追っていくものという印象である。語源を調べてもあまりしっかりした調査結果がないということが多い
なぜかというと日本列島に人が住み着き始めたのは4万年前とも言われていて、その後の縄文早期は1万年前で、文字の資料があるのが基本的には奈良時代の古事記日本書紀万葉集以降が初出となるからである。
これはほかの言語でもそうで、文字の記録が残らない先史時代に使われていたと想定されている印欧祖語(インドヨーロッパ語族の祖語として構築された仮設上の言語)やシナチベット祖語なんかがあって、記録がないのでこんな言葉だっただろうどまりになっている。
もともとのホモサピエンスのことばについてはこちらのサイトに少し紹介があって
つまり、言葉は数世代で変わってしまうということで、日本の現代でも若者言葉というのは紙面に登場するが昔から言葉は変化しやすいものであったということだろう。
また、日本語の起源についてWikipediaを見てみると色んなルートがある。台湾からオセアニアに広がったオーストロネシア語族、中央アジアやモンゴルに広がるアルタイ語族、大陸から朝鮮半島九州ルートでの朝鮮語百済高句麗や古中国語関係など。
このあたりについては最近ニュースになった記事でもあるが、
もとより古く日本に住み着いた人の起源も解明中だが3ルーツあると言われている
日本列島はかつて大陸とつながるか、とても近い時期があった。現代人の祖先はアフリカ発祥だが、そのうちの一団が北方周りでやってきた人たちなのではないかと思う。
それから半島周りルートで対馬九州へとやってきた人たち、台湾から沖縄の南方ルート、ほかに阿蘇山の噴火や氷河期とその後の縄文海進など時期的な違いで先住していた石器時代の人や縄文時代の人と移住してきた人など色々いたように思う。
そうして言語も混ざっていったため日本語の語源を追うのは困難なケースが多い。ましてや万葉集の頃までの万葉かなや上代日本語と現代日本語の違いもあり語源が定かでないものが多い。
アルファベットなら文字として残すのは簡単だが万葉かなは覚える文字も多い。表出しているのは氷山の一角で別々の氷河由来だったものが混ざり合って新たな氷となってしまったとするならば、どうやって分離することができるだろうか。
できることはそれらの懐かしさを頼りに、いろんな角度から面影を見つめ直してみることかもしれない
国立国語研究所によると語源や由来の説に論ずることはないと書かれている。これは科学の対象になりえない論理上の限界を超えているからであり、文化伝承の世界であるともいう。まさにそういうことなんだろう。
言の葉
さて、ここまで書いたが言葉、や言の葉の語源については調べてみるとある程度はっきりしているようだ。
はっきりしているがその源流はつかみきれない。つかんだが気が付けばつかめていない
言葉とは何かと調べてみると、まずこちらのサイトによれば言葉は当て字だという。
著者は『三省堂国語辞典』編集委員の飯間浩明氏で実際、万葉集を見てみると、言羽や辞と書かれていたようで言葉とは書かれていなかったようだ。
さらに、ことばは「こと」+「は」で言+端であるという。
では「こと」とはなにかというと、言語の「言(こと)」と事実の「事(こと)」が区別されておらず一緒だったという。
そして「は」は端っこのはで口から出る言語表現だという。「口の端」に上るというような慣用表現があるが、「言の端」は、「ことのはし」となる。正直分かるような分からないような感じである。
言葉の端々というような場合は、本質から離れた部分というような意味になるし、口の端に上るだと噂話ということになるので、やはり大事ではない端っこの部分というニュアンスが感じられる
「言の端」が「事の端」だとしても些細なことだというような印象は受ける。
ただ「井戸端会議」という言葉がある。あれは井戸の周辺で雑談などする様子をいったもの。井戸端ということばの初出は江戸時代なので新しいが、もしかすると昔は川の端でも会議があったかもしれない。
そのニュアンスで「コトの端」での会議や議論が「言の端」となったとすれば多少はイメージが捉えられるかもしれない
こと-は
ここで日本国語大辞典を調べてみる
日本国語大辞典を見てみるといくつか意味が出てくるが、古い初出から平安前期頃で2つの意味で「ことば」が使われていたのが分かる
一つ目は話したり語ったりする表現行為のことで、万葉集の774番では「諸弟らが練りの言葉は我れは頼まじ(諸弟らの巧みなことばを、私はあてにすまい。)」というふうに使われている。
原文の漢字本文は「諸弟等之練乃言羽者吾波不信」で「言羽」。もっとも、言羽で万葉集で検索するとこのひと歌しかなかったので使用例が乏しい
もう一つは、ものの言い方とか口のきき方で、これは現代でも「お前のその言葉!」とか「あなたの言葉が」みたいに使われるので同じような意味だろう。
こちらは辞の文字が当てられている。辞の例を万葉集でしらべてみるといくつかあるが、人辞でひとごと=人のうわさであったり、歌辞でうたのことばであったりなどがあるので
辞書の①②のどちらの意味でも使われていたようだ。
さらに改訂新版 世界大百科事典(著者は阪下圭八氏で日本文学研究者か)を見てみると
とあって、「ことば」は数例で「こと」がいくつか複合言語が挙げられれていて既に「こと」+「」や「」+「こと」で使われていたようだ。
ここからその昔から「こと」という単語が使われていただろうという推測が成り立つ
これらから考えて「ことば」は「こと-は」、その源は「こと」であるとしてよさそうだ。
そしてこととは何かというと、言(こと)と事(こと)でその区別も曖昧というより未分化、つまり一緒のものだとされていたようである。
言とも事ともあてるものとしてはことあげやことどうなどが挙げられている。ほかにも事痛し・言痛しや言寄す・事寄す、といったものもある。
ここで「事」について調べてみる
などとあって「事」ですらなんなのかを書き表すのは難しい。ざっと言ってしまえば存在しているものが「もの」であって存在していることが「こと」である。
概念上の存在が「事」であり「言」であった。願い事はまさにそうだろう。
ただし全ての言語が「こと」ではなかったようだ。「いう」とは同じ漢字であらわされるが、日常会話はいうであって、ことではない。筆者は特定の「言」をこととし、言霊について神授のものとされていたのであろうという。
コト
もう少し「事」について調べてみる。
日本国語大辞典のほうでも「言」と同語源かとある。大まかに見て、「もの」と対比となる動きや性質、関係、現象を表す語。もう一つは名詞化し体言化する形容名詞。「うつくしきこと」とか「かなしきこと」など形容詞が名詞化されたり、「絶えることなく」など動詞もある。名詞化するための接尾辞として働くのでことに強い意味があるわけではない。従って一つ目のものに対する現象などを表す語が原義に近そうである。
辞書では、形をもった「もの」に対し、そのものの働きや減少などを表す語。とあるが、もう少し見てみる。
ざっと言えば人の為した行為が「こと」だということだろう。そしてできごとの結果だけではなく、その始まりから最後までの過程も「こと」と呼んだ。行事や出来事、仕事など。
おそらくだが最初はそういった行為を「こと」と呼んでいた。そこに誰かの話したコトも含まれるようになった。公式の行事というのはなんらかことばを述べるものだし、そこで新しく決まって話されたコトが次の仕事の内容でもある。未来についてのコトもでてくるだろう。このままだと悪いコトになるので、新しく事を起こさなければならない。
そして、言が「ことば」になるのは、事・言の分化が示されていると阪下氏は言っている
為した行為も話した内容もコトだったのが、次第に分かれていった。そして話したコトは「ことば」となった。
ことばの語義はコトの端やコト端の葉とも言われるという話に戻ってくる。
端
ここで、端についても少し辞書を見てみる
端(は)と呼んで最初というような意味があった気がしたが、端には書物のはじめの部分や物事のおこるはじめという意味もあるようだ。
コトのはじまりは、誰それの言った言葉から。そのような意味でコトの端がことばとなったのであればなんとなく分かる気がする。
もとよりはじめということばは昔は「はしめ」とも表記するので、「は-しめ」だった可能性もあるかもしれない。
ただ、単純に端をはと読むケースの場合はそれほど強い意味がないこともあるようだ。年端も行かぬというような場合は、一人前の年齢にいってないという意味だそうで、昔だと元服前の年齢になるのかなと思う。また、行端や逃端にしても行くところや逃げるところとなるので軽い意味ではある。
ちなみに万葉集を見ていると毎年は「年のは」という、と書いてあるものがった。一つではないものを表しているようでもある。
古今和歌集 仮名序
ことの端については飯間氏も阪下氏も触れておられるが、まだこれといった決めてとなるようなものはでていないようだ。
そしてコトの端が言の葉となったのは10世紀、平安時代のようである。
古今和歌集の仮名序に、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなりけるとある。
日本の和歌は、人の心から生まれて、色んな言葉が葉のように生い茂る。という冒頭部分だが、もう一つの真名序では「夫れ和歌は、其の根を心地に託け、其の花を詞林に発くものなり。」となっている。
つまり漢文としてのやまとの和歌という序文がありつつ、仮名として日本の和歌を成立させるという日本文学の出発点がここにあったと言える。そしてその和歌とは何かについてはその続きの文で
と続いていて、事や業が多ければ、思うことを見るものや聞くものに託して歌にする。そして花に鳴く鶯や蛙の声を聞けば生きとし生けるものすべてが歌を詠んでいるんだなと。そして天地も動かし、鬼にあはれと思わせ男女の仲も打ち解けさせて、武士の心も和ませるものと詠む。それが日本の歌だと。
印象深い名文である。言の葉はただことを説明したものではない。何かに託してことの葉として、種から葉が生い茂るように、よろづのことの"葉"とし生まれたものだということだろう。それは事を正確に伝えるというよりは印象的に伝えるということであり、ただのことが結果ではなくその過程を伝えるものとして、人の心=種とよろづの言=葉として表現されているように思う。
調べてみると古今和歌集ではことのはをうたった歌は見つからず、鎌倉期の新古今和歌集では十数首見つかる。
ことのはと詠むとき、葉にかけるので変わりゆくものや枯れるものというニュアンスで使われるケースが多い。これは新古今和歌集の幽玄・有心の美学からそういった歌が取られているだけかもしれない。あなたの言った言葉も枯れていくとか、別れたあなたの残した言葉という感じで、人の心からよろづの言がたくさん生い茂るという雰囲気ではない。
とはいえ言の葉がこの後日本で浸透したかというとそういうわけではないようだ。
とあるように考え方は広まったが言葉はそこまで使われていたわけではなく、辞や語がつかわれていたようだ。
もの・ごとが日本的な存在概念であった。それが言が事から離れ、言の葉となったとき、大樹となって言の葉の森を形成すると同時にピークを迎えた。
そうしたあと鎌倉室町桃山江戸と、ことばがもっていたことの概念はなくなりただの語となっていった。
それはコトが持つ言霊としての霊力が失われていった時代とも関係があるかもしれない。
とはいえ、この古今和歌集が編纂された時代にすでにコトからモノへとなっていたようでもある。古今和歌集の仮名序に対するもう一つの真名序では次のようにある。
ここでは営利を争い金銭を求め和歌を詠じないことにたいする嘆きがうたわれていた。この平安時代でもモノとコトでしだいにモノが優勢になっていたようである。平和な時代というものは、モノが有る時代ということでもある。モノがあるということはそれを収集する時代にもなる。
そういった時代において逆に和歌の収集が命じられた。漢詩や漢文の権威がまだあった時代に漢字からかなへ和歌としての初の勅撰集、やまとうたとしての和歌に権威を与え、そして和歌とは何かについて仮名序で論じ新しく葉を開く試みがあった。しかしそれも平安時代で閉じてしまう。途中江戸時代に俳句などの文化が盛んになったが、言の葉が辞書に取り入られることはなく、次に現れたのは明治時代になってからであった。
ことのね
明治期以降に辞書にことばが言葉と普通に記載されるようになった。おそらくだが、これは明治天皇が和歌が好きだったということとも無関係ではないように思う。ただ仮名序に書かれた言の葉からは離れ、言葉は語や辞と同じような意味となった。
しかしことばというのは変わっていくものであることには違いない。仮名序では心を種として、言の葉と呼んだが、語というのはモノを表したものであり、ことばもコトを表したものである。そして時代によってモノもコトも変わっていく。
本来変わったモノやコトにたいしては新しい語を当てはめるべきだろうが、変わらず普通はそのまま使われていく。そしてそこにはもともと指し示していたモノやコトとは違うものが示されてねじれていく。言葉の源流を探し出そうとすることは流れを遡る事でもあるが、言の葉をたどっていくのはねじれてしまったもとを辿る事でもある。
葉のもとは枝や茎があり、そのねもとには根っこがある。その根を探し出すとき昔の語の音にも触れることが出来るかもしれない。
参考文献
大野ロベルト. 『古今和歌集』仮名序の真価を探る ―「六義」と「歌のさま」の問題を中心に ―. アジア文化研究, 2013
大岡 信. 紀貫之 (ちくま学芸文庫). 筑摩書房. 2018
参考URL
国立国語研究所、2015、語源や由来の説
https://kotobaken.jp/qa/yokuaru/qa-06/、2024/07/23取得
飯間浩明、2016、「ことば」、
考える人(https://kangaeruhito.jp/article/3580)、2024/07/23取得
渡部泰明、『古今和歌集』仮名序とは…日本文化の原点にして精華
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=5143、2024/8/13取得
文学の話 – 意味と解説、2022、古今和歌集の仮名序〜やまとうたは、人の心を種として〜意味と現代語訳と解説〜
https://www.bou-tou.net/kanajyo/、2024/8/13取得
国際日本文化研究センター、新古今集
https://lapis.nichibun.ac.jp/waka/waka_i010.html
コトバンク、言葉
https://kotobank.jp/word/%E8%A8%80%E8%91%89-490828、2024/7/23取得
コトバンク、事
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8B-502856、2024/8/14取得
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