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ニューノーマル

 「ニューノーマル」という言葉を聞いた時、素敵な響きだと思った。
イギリスに住む方が、新型コロナウイルス感染症予防の自粛生活のことをそう呼んでいた。
 日本語でいうと「新しい日常」。
今言われているそれはソーシャルディスタンスを保つとか、そういうことなんだろうけど。そこから想像を膨らませて、私はコロナ禍の前から自分が感じていたこととリンクさせてみた。日本人にとってのニューノーマル。

 例えば、してみたかったことをする時間が当たり前にあること。
歯を食いしばって頑張っていたことからちょっと自分を遠ざけること。
無理して関わっていた人と距離を置くこと。
自分や家族の命を優先させてもいいんだ、っていう気持ち。
立ち止まって違和感に向き合うこと。
自分自身がどうしたいのか、どうするのか、を考えてみること。

 立ち止まろうとすると「歩け」「みんなと同じ歩幅で、速さで」と言われて歩き続け、気がついたら遠くまで来ていた。
そんな毎日でも、立ち止まろうと思えば意外と簡単に立ち止まれる。
そんなことに気付いた人も多いかも知れない。

 コロナ前から関心があった「不登校」について考えている。
ここにも「ニューノーマル」の考え方は当てはまる。
子どもたちは違和感や不安、ある出来事などをきっかけに自分を守る為に危険な場所を回避し、シェルターに逃げ込もうとする。子どもたちはこのシェルターに「ニューノーマル」を求めているのだと思う。
日常が辛過ぎて、怖過ぎて、心の危険を感じて自分を避難させ、新しい日常を求めるのだ。至って自然で本能的な行動。
 その不安や違和感は大人が気付くずっと前に子どもたちの中でジワジワと広がり心や体を埋め尽くしていき、実際行動に出る時には大人が想像するよりも大きなものになっている。
 でも大人は「ノーマル」基本で生きていて、それ以外を知らない。自分自身もその本能を押さえ込んでノーマルこそ幸せへの道だと自らも信じ込まされて大人になっているから、避難を認めようとしない。そこで子どもたちはシェルターを失い、更に苦しむ。
 そんな「どちらの気持ちもわかる」状況を幾つも見てきたし、自分も体験した。

 今だったら、一つの解決策として「ニューノーマル」を受け入れ、その中で生きることを提案出来るだろう。「不登校=勉強が嫌い、学ぶ気がない」と思われがちだが、むしろ勉強のことまで考えられない程辛い現実があると思った方が良い。安心出来るシェルターを探しているのだ、と。
 学校があなたにとって学ぶ場所でなかったのならば、さ、どうやって学ぼうか。と寄り添い一緒に考えてくれる誰かがいてくれたら、そこに子どもたちのシェルター=ニューノーマルが生まれる。

 アフターコロナでは、今まで見て見ぬ振りをしてきた「ありもしない普通」「ありもしないノーマル」を全員で競争しながら追い続けることを、一旦考えてみたい。
 人は一人一人違うから社会が構成出来るのであって、コピーロボットみたいな人たちが構成する社会は歪。私たちは黙って連れていかれるのではなく、どんな社会を作りたいか、どんな社会に暮らしたいかを一旦立ち止まって考えなければ。
 心の余裕や時間の余裕を子どもから大人までが持てる様な、ニューノーマルを望む。

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