深い、深ーい話をしようか
教室で毎日小学生と一緒に英語のレッスンをしている。
私の教室の特徴は「話したくなる」こと。その魔法を毎日かけ続けるのが私の仕事。
子どもたちにとっては週に一度、しかも一週間168時間の内のたった50分。だから約200分の1しかこの場所には来ないんだけど。でも、不思議とこの「場所」は子どもたちの中で「話を聞いてもらえる場所」になっている。
ある時は英語で教科の名前を復習しながら道徳が出て来たから突然頭ぐるぐるタイム。「道徳の授業って、海外の人に話すとびっくりされるの。なぜでしょう。」答えがない他愛もない話。そこでは自由に発言していい。頭に浮かんだことたくさん聞かせて。ある子が「外国の人は普通に悪いことするから〜」「えぇ〜そんなことないよ〜」子どもたちが意見の交換。
私はどの意見も大事だということを軸に据え、ファシリテーターに徹する。
ここで大切なことは、いろんな意見が聞けたこと。自分の意見が言えたこと。それを持ち帰って、またそれぞれ考えると良い。まずはその「なんの評価もされない自由さ」を味わってからでないと、英語の技術がいくら上がっても自分の意見なんて言えないし、人の意見を味わうことも出来ない。
子どもたちは「うへ〜っ」と辛そうにしながらいろいろ考えたり、とりあえず言ってみたり、人が言った意見に意見したり。喧嘩になるかも、そんな言い方ないじゃん、そんな場面も多く出て来る。
きっと今までの私たちの環境の中では途中で大人が割って入ってあれこれ指示してしまっていたけれど。でも自由に話すことに慣れていないと、その中でのモラルの在り方や意味も味わうことが出来ない。ただ誰かに決められたルールの中で、自由なのか不自由なのかわからない状態で人の目を気にしながら言葉を放つことなんて全然楽しくない。
時間はかかる。教育はそんなに簡単じゃない。だから教師も試行錯誤しながら一緒に頭ぐるぐる。それでいい。とりあえずみんながアクティブ。即席や横並びの正解を求めなければ、このスタイルでの学びは笑ってしまうほど楽しくて、深い。子どもたちの持っている素晴らしいアイデアに、私たちの方が多くを学ぶ。
子どもたちを大人の決まりの中に閉じ込めてしまうことは良いことをしているかの様に見えるが、子どもたちの可能性を断ってしまうものであり私たち自身からも大切な「学び」を奪っていることになるのだ。
だから今日も私は、子どもたちから出て来る深い深ーい話を味わって学び合う。