コミュニケーションって何
先日地元に新しく出来たキャンプ場を見に行った。かなり良い環境で施設も整っていると話題だったので心躍らせて行ってみたが、行ったのが連休の中日だったからか人の多さに愕然とした。
私にとってキャンプとは、人との距離よりも自然との距離を縮めて自然と一体化する手段。こんなに密集してテントを張ってすぐ隣の家族の寝息が聞こえてきそうなキャンプは私の中ではまったくキャンプではない。
今まで行ったキャンプはいつでもフリーサイト。その中でも一番チャレンジングなサイトを選ぶ。斜面だけれど、どのくらいの斜面なら一晩生活することが可能か、という自然へのチャレンジ。当然一番ご近所のテントでも随分遠くに見える感じ。それが醍醐味。
そんなことを考えながら、人との距離について考えてみた。ここに集う皆さんは楽しそうに周りのテントの人たちとのコミュニケーションを楽しんでいる。もちろん私自身独特のキャンプの定義は持っているものの、コミュニケーションの必要性や楽しさは十分わかっている。
そして、コミュニケーションのあり様によっては人と接することで、自分自身のことがより見えてくるということを知っている。
コミュニケーションは要らない
私は英語講師であり、コミュニケーションを教える立場にある。しかし私自身自分がコミュニケーションが苦手だと思って生きてきた。
え?コミュニケーションが大得意な人が教えてくれるんじゃないの?という方もおられるかも知れないが、苦手だからこそ私はこの教育に携わることが出来るのだ、と今はむしろ強みに思っている。優れた野球選手が必ずしも良いコーチになれるわけではないのと同様、苦手意識を持つ人の気持ちがわかるからこそ、自分自身が苦い思いもしながら試行錯誤してきたことを人に伝えられる。
コミュニケーションが苦手な私のような人はきっとこう言うだろう。
「コミュニケーションなんて要らない。自分は一人だって生きていける」
好きな音楽を聴き、好きなものに囲まれてそこそこ仕事もして生きていければそれでいい。それには納得だし、それは可能だと思う。
人と交わってこと社会だ、人と関わらずして買物も出来ないだろう、そもそも...とわかりきったことを当然の様な顔をして言う人には私も数多くあったし、ウンザリしている。それに買物だって人と会わずに出来る時代はもう来ている。「コミュニケーション」という言葉の濫用でどれだけ苦しめられてきたか。
そんな言葉や理屈を飛び越えて私が出会ったのは、それとは違う現実だった。それは「自分とのコミュニケーション」。
自分の好きなものも知ってる。自分が何をしたら喜ぶか知ってる。そんな自分を良く知る自分自身、という最高のバディと一緒に生きていけたらそれで十分。
ただ、そんな自分も動物。気分の浮き沈みや体調、自分が蓋をしている感情があることも事実。それが顔を覗かせた時、自分に裏切られた様な気持ちになってイライラすることがある。自分が信じられなくなった時、私たちは本当の絶望を感じる。
自分とのコミュニケーション
そんな自分をも受け止めて愛することが出来たら、どんなに良いだろう。それこそ最高のバディだ。ただ、そこに行き着くには、やはり自分自身とのコミュニケーションが必要なのだ。
「コミュニケーション」という言葉が周りの人との交流、という意味だけで広がっていることでかなり誤解も嫌悪感もあるのだが、自分自身とのコミュニケーションがうまく出来るかどうかで人生が180度違うと言って良い程人生に影響するから、これは押さえておいた方が良い考え方だ。
「自分」という最高の味方と共に人生を力強く歩むために何が必要か。一例としてコミュニケーションが不得意でありながら自分と親友になった私の経験をお話ししたい。
その前に私が「コミュニケーションが苦手」なんて言うと、きっと私の周りの人は全員「それは違う」というだろう。人当たりよく、友達も多くていつも朗らかで楽しそうだったよ、と私の過去を知る人は言う。でもそんな私の中では、常に人の顔色や人の目を気にして、その場その場でカメレオンの様に色を変え表情を変えてきた「自分を失った自分」が常に影を落としていたのだ。
「自分らしく心豊かな生き方」とは程遠い自分。他人に理解されないから、余計に辛い。自分じゃない自分は自分を離脱してどんどん前に進み、その自分が人から受け入れられていくのを心配そうに見守る自分がいる。
「そうじゃない、そっちじゃない」
寝る前に布団の中で何度、嘘の自分を恥じたかわからない。かといって本当の自分は隅っこに隠れて出てこない。
自分と差し向かい
そんな私が自分と差しで旅をした。それが20代の頃。
自分が憧れていた自分とは程遠く、何かを追っている様で何も追っていない自分に嫌気がさした。何かに誘われる様に、ただ一つのしたいことに自分を委ねることにした。単身海外生活。
周りの人たちが就職活動に忙しい頃、私はバイトをいくつも掛け持ちしてただひたすらビザ申請に必要なお金を準備していた。
そして大学を卒業した年の6月、単身ニュージーランドに渡った。
そこで頼れるのは自分だけ。毎日泣き、もがき、今までどれだけ多くの人たちに支えられていたかを痛感する数週間。それから気付いた。自分がいるじゃん。一人じゃない。
美味しいものを食べて感動し、美しいものを見て喜んだ。自分自身と一緒にただそれを味わう。同じ感覚で喜ぶ自分と意気投合。でもそれも束の間、生活の中から英語を学びにきたのに仕事が見つからない。不注意でお金を失う。私は自分自身を責めることで自分の最大の味方に背いた。
自分に背いた結果、勇気を出して周りを見渡し周りの人と挨拶程度の会話をする様になった。自分がダメなら他の人、というなんとも情けない理由なのだが、結果それが良い形で自分と再開するきっかけとなる。人との会話の中でその解釈について自分ならどうする、どう思う、と自分に問いかけるようになってきたのだ。
私は周りの人たちに挑むことで、自分との対話をより深め、より強い味方を得ることが出来た。それは自分だけの狭い世界の思い込みにとどまらず、人の考えを知ることで自分の心がどう化学反応を起こすかを見る過程。
そこから自分本来の姿が抽出される。その自分が例え自分の思った様な姿でなくても、深い対話の中から私は自分の深層にある正直な気持ちを知り、愛おしく全てを受け入れる気持ちになる。
「結局海外かよ」となってしまいそうだけど、たまたま私にとって自分と差しになれる場所がそこだっただけ。人と話していると、それぞれ自分と差しになる場所に出会った人がいる。ある人は親元を離れて。ある人は自営業の中で。ただ、どんな方法を取ったとしても、自分と向き合う経験をした人は頼もしい。この経験は私にとっても大きな強みで大きな転機となった。
流される人々
帰国して教育に携わった時、驚いた。自分自身を見失う人が多いことに。それは教育者であり、おうちの方であり、子どもたち。自分自身のそれに気付いて時々悶々とすることもあるが、その度に心がけて自分との対話の時間を持つようにした。「君の目的は何だ」「本当にみんなが良いと言ってるという理由だけで、その手段を使うのか」もう一人の自分は頼もしく、いつも流されそうになった私を原点に戻してくれる。そんな自分を信頼して、自分の心の声に耳を傾けるのは、自分と差しで話し合い続けて信頼出来る相手だと知っているから。
私は今後子どもたちに必要な力はこれだと思っている。これを持たずに社会に放り出されることの恐ろしさを、身を持って経験したから。そして、自分を味方につけることの心強さや豊かさも知っているから。
そのためには、自分を信じることが出来る環境があると良い。でもそのいつ整うか知れない環境を待つだけでなく、自分からその環境を探しに出かけたり、作ってみたりすると良い。一歩踏み出した人には、自分との対話が待っている。どうか、一歩踏み出して自分のことをもっと知って欲しい。自分と語り合い、自分と親しくなること。
私は自分がそれを「英語」、また「人との関わり」を通して深めることが出来たから、今は英語を教育の基盤として「自分との対話」を推し進めている。もちろん「英語」は私が選んだ一つの手段で、人の数程形も方法もあることは言うまでもない。
このコラムを読んでくださった皆さんお一人お一人が与えられた人生を豊かに過ごすために、どうか一歩踏み出してその自分なりの方法を探して欲しいと願っている。