自分の人生を生きる人を育てるために
教室運営者の覚悟
英語教室を運営している私。数年前に大きく舵を切った。
『うちは読み書きはしません。スピーキングがメインです』
『英検や受験を目標にした英語教育は行っておりません』
そして中学生のレッスンも「受け身から自発」に舵を切りった。英文法のワークや英単語テストをカットして、アイデア豊富な先生に毎回発話のアクティビティーを入れてもらっている。英語を覚え込むのではなく、英語を使って表現をする。そうして使う中で英語を身につけていく。テストの点を保証してしまうと、私たちの目が自分たちの思う方に向けられなくなってしまう。せっかく自分の教室なのだから、と完全に賭けに出た。それで需要がなくなったら、教室を畳む覚悟で。
結果的には、心配していたことと逆のことが起きた。想いを前面に出し始めてから需要が高まり急速にクチコミや教室の方針を見て来てくださる方が増えた。
教室運営者にとって、自分のビジネスが立ち行かなくなることが一番怖いように思える。でも私はいざとなったらお金は自分の技術で賄おうと思っていた。もし自分の想いを込めた場所が「お呼びでない」のなら、既存の学校や教室で「教える人」に徹しようと思っていたのだ。自分の想いを表現する方法はまた考えたら良い、とのんびり構えていた。
私にとって「自分で教室をする」ということは「ビジネス」よりも「表現」の要素が強かったのだと思う。
全部愛。でも方法が違うだけ。
「英検を早く取らせたい」「単語をたくさん覚えさせたい」という方には、大変恐縮だが「それはうちの教室ではないと思います」と説明してお断りしている。それぞれ英語をどんな風に子どもの成長に活かすか、それはそれぞれで良いのだと思う。ただ想いが違う場所では願うことも叶わないから、私はただそう伝える。
私の教室の生徒さんのご家庭は「子どもが楽しんでくれたら」という言葉と口々に言う。そしてその言葉を絶対叶えたい、と私たちはあらゆるアイデアや労力を結集させる。その「楽しさ」のために。そして子どもたちが楽しむ姿を家の方は喜ぶ。その中で子どもたちは英語を「楽しいもの」だと認識し、英語をもっと知りたいと思う。もっと言える様になったらもっと楽しいのかも、と思う。それが自発的な学びに繋がっていく。
それは決して子どもたちだけの学びではなく、大人がそれを「待つ」ことに大きな意味があると思う。子どもたちの頭脳は素晴らしい。覚えも早く、感覚的に学ぶ力も持っている。そこで大人はもっともっとチャンスを与えたらもっともっと子どもは伸びると信じて、いつしか子どもを追い抜いて前を走り子どもを引っ張り始める。そうなると、子どもの速度や結果が気になってきてダメ出しが始まる。親や先生自身が主になってしまうから、ちゃんと自分が先導出来ているか周りを気にし出す。人と比べる。そうしてその子自身の持つ良さを十分に引き出せないまま、ただ焦燥感を募らせる方を多く見てきた。親子共幸せになれない上に、多くの場合親子関係が破綻して修復に随分と時間がかかる。または、ずっとそのままの関係を続けていく。
「親の愛」から始まる行動は親が主体になってしまうと思ってもいない方向に進むので要注意だ。
でもそれも「親の愛」故のこと。
3人の子育てにまみれてきた親で、私自身が何度も「主になる人」を間違っては子どもたちに正されてきたから、よくわかる。どんな関係も、子どもの幸せを願う気持ちから始まったことなのだ。
私が伝えたいこと
そこで間違いだらけの私がたどり着いたのは、子どもの人生を生きる子どもが主になる生き方をサポートする大人、という生き方だ。
「自由な子育て」と一括りにされがちだけれど、その方法も他の方法と同じく人の数ほどある。自由だからこそ、迷ったり間違ったりすることも多いだろうが、そのプロセスこそ親にとっても子にとっても学びだと思っている。
「圧力と強制」を選ぶ人もいるだろう。私はそれぞれの愛の形だと理解しているが、いつも自分自身に問いたいのは「それはその子主体の人生に繋がっているか」ということ。
「叱るべき」とか「叱ってはいけない」とか「体罰」とか「褒める」とか。小手先の技術を真似するのは簡単だけれど、残念ながら本質はそこではない。そんなに簡単ではないのだ。泥臭く迷って悩んで、子どもにとって何が一番良いかを考えること自体が大切なのだ。人真似をしてスマートに楽に子育てなんて無理。
ただ迷う中で道標が全くないのは不安過ぎるから、私は是非皆さんに「それはその子主体の人生に繋がっているか」を一つの目安にしていただきたいと思う。
「その子自身が考えて答えを出す」ことに繋がっているか。
叩かれるのが、罰されるのが怖くて大人の顔色を見て答えを出すことは、正しいことなのか。大人は時間的な効率や成果を考えがちなので、すぐに言うことを聞く方法を考え出す。でもそれは「大人の都合」ではないのか。自分自身にも常に問うている。
そしてもう一つ言えることは、子どもたちはそれぞれ違うということだ。人が良いと言った方法を真似したら全てうまくいく、なんてことはない。人が成功した方法が必ずしも我が子に当てはまるとは言い切れないのだ。
目の前の子の表情、言葉、心の動きを出来るだけ汲み取りながら、その子自身が自分がなぜそう思うのかを理解して話すことが出来るか。それを待つことが出来るか、それが今大人に課された最大の難題だと思う。
限られた時間の中で、急がず慌てずそれぞれの子どものペースに寄り添い、その子の表現を引き出すこと。一人ではとても大変なので、周りの人も巻き込んで。こどもを責め急かす人ではなく、一緒にゆっくり歩んでくれる人と協力しあって子育て出来るといい。そんな環境を産み出す存在になりたい。そう願って、私はフリーランスの教育者を続けている。
ここだけの話
私は結果重視の大人に見つからない様に、「英検合格」や「高校合格実績」を表に出すことは無い。けれど実際子どもたちのタイミングに任せておくと、英検の対策をせずとも感覚で長文や会話文、リスニングを十分理解して正解することが出来る子がほとんどだ。いつも私は「教えてないのに、どうしてそれが読めたの?」「その言葉知ってたっけ?」と尋ねるのだが、子どもたちが「レッスンの中で先生が言ってた言葉の中にあった」とか「なんとなく他の答えが違和感あったから」とか。大事なものを自分で拾う子どもたちの力に驚かされる。
結局英語や言葉はそこだと思う。今この人が何を言おうとしているのか、この文章が何を伝えようとしているのかを捉える心を、英語を通して育てているのがこの場所。そして、それをじっくり見守る大人たちに囲まれた環境の中で、子どもたちは自分のペースで伸び伸びと力をつけていくのだ。
そう思うと、この場所を選んで一緒に育ててくださる方々に心から感謝している。その場限りの知識や小手先の技術を教えて子どもたちが次のテストで良い点数を残すことだけにフォーカスするならば、もっと指導を合理化して簡単に出来るだろう。
私は未来を見据えてじっくり寄り添うことを選んだ。これからの世界を引っ張るのがこの子たちなら未来は明るい、そう感じるのだ。
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