受験アンチ?
私は受験を中心に子どもたちが生活することに否定的な意見を言うことが多いので、自分でも「私は受験アンチなのか」と思うことがある。
でも少し自分の思考を掘ってみると、アンチとはちょっと違うと思う。敢えてアンチと言うならば「試行錯誤しないアンチ」と言えるかも知れない。
受験に関して私が否定的な言葉を言う時は、子どもの意思がそこに全く反映されておらず、親もちゃんと受験のことを学ばないままに子どもたちに自分のされてきた方法だけを強要をし、学校もさほど最新の受験情報を持っていない中、塾またはSNSの誰かもわからない教育インフルエンサーのような人をあたかも教祖であるかのに崇め、振り回されている親に対して違和感を持つ時だ。
受験自体は悪くない。子ども自身が受験を見据えて、力を発揮する例もたくさん見てきた。そういう人は、大抵うまくいく。そうでない場合、大人に言われるままに動く子ども、また動かざるを得ない子どもは、厳しい現実が待っていることも多い。
多くの子どもたちを見てきて、「自分の気持ち」がそこに入らない場合、つまづいた時に修復が難しい。そして自分の気持ちが入ってないだけに、責任転嫁しやすい状況になるのだ。「言われた通りにしたのに」。逆に大人はというと「お膳立てしてやったのに」「高い塾代も払ったのに」という。
子の幸せを願う親心が、子どもにとって最短で確実な方法に我が子を乗せようという気持ちはわからなくもない。でも実際、一番怖いのは自分の人生を味わえないことだ。好きなことに没頭したり、もっと知りたいと思うことに徹底的に向き合ったり、その時その瞬間にはそれは何も成果を生まないものに見えるかも知れないが、子どもの頃のそういう体験や記憶が大人になってその人を支えるということを多くの大人が経験しているのではないだろうか。
また、「こうすれば良い」と親が頑なになることで対話が生まれない。この子が何に興味をもって、何をしたいと思っているのか。上下関係のない対話は、自分を知ることに大きな意味を持つ。子どもに問いかけることで、子どもは自分自身に向き合い、それを知ることで親も子どもとの関係を豊かに育むことができる。身近で安定したコミュニケーションは、その子の土台をしっかり作る。
私は受験アンチなのではなく、試行錯誤せず最短の近道だけを行かせようと無理強いする大人たちアンチなのだ。
子どもと一緒に試行錯誤する覚悟で、子どもが安心して試行錯誤できるように見守り対話を続ける大人の存在こそ、子どもたちが幸せな人生を送る近道になり得ると思う。