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生き方

 私はフリーの指導者。
子どもたちと向き合う中で、おうちの方々と向き合うことも必要不可欠。大抵のおうちの方は悩んでおられる。その内容はほとんどゴールがわからないレースに乗っけてしまった子どもたちの伴走の仕方。
おうちの方も、もちろん走る本人もゴールを知らない。当たり前。
そもそも生きる先にあるゴールは「死」だけで、どう生きるかはその過程。
勝手にゴールを決めること自体ナンセンス。

 それでも揺るぎない幸せを求めるあまりに、その主語が誰かさえもわからなくなってしまうおうちの方、多数。
私はいつもお話を伺って、その主語は誰だろう、と不思議を感じる。
本当にその子が自分の人生を自分らしく生きるのであれば、私たちがすべきことは何だろう。失敗させないことだろうか。近道を教えてあげることなのか。お金をたくさんもらえるようにすることなのか。
答えはいずれもNO。
決めるのは子どもたち。

 私は自分の子どもたちのことを「私のところに来た寮生」だと捉えるように心がけている。彼らは彼らの人生があり、迷って悩んで自分の道を選んでいく。その中で必要であれば食事を提供し、寝床を与え、看病をする。
 もちろん語り合うことの目的は私の思い通りに動かすことではなく、その子が悩む中で心を落ち着かせ、また歩み出すためにそばにいること。そういうイメージ。いずれこの子も社会の一人として生きていく。そのためにここで学びや準備のサポートをしている、それが家庭。そういう観点で見ると、出過ぎた親が多い気がする。

 出過ぎるあまりに未来有望な子どもの夢を壊し希望を失わせ「これさえあれば、他の人にバカにされずに生きていくことが出来る」と示す。
まるで「他の人にバカにされないこと」が人生の目標であるかのように。
 そうして、人と共生し認め合う社会とはまるで程遠い場所が出来上がるのだ。そうやって私たちは今の社会を作ってきた。

 ある人は言う。
『良い大学に行ったら、みんなから「すごい」って言われる。アルバイトだって、学校の名前だけで高収入が見込める。塾や家庭教師で勉強を教える真似事さえしていればお金をたくさんもらえるし、一旦良い大学に入ってしまえば中退したって良い職業にありつける』

 そんな生き方が、「良い生き方」だと言われているの?
衝撃でしかない。そんなの、嫌だ。
 そんなことを「良い生き方」だと思って突っ走って来た人たちが大人になって、はたと「自由に生きたい」と言い出す。自由を与えられて来なかった人たちは、自由を手に入れたら何を目指すのだろう。
 ある人は、自由は欲しいけど、自由の使い方を知らない、と言う。

 子どもたちには、まず自由に考えることを教えたい。
もちろん物理的な自由は限られるかも知れないけど、その分想像の翼を広げて自由に想像したり、それを人に話したり。
 それをバカにしたり訂正したりしないでただ聞こう。

 子どもが小さい頃に聞かせるのは、大人が勝手に決めた成功への近道の話じゃなくて、おとぎ話がいい。一緒に空想の世界で楽しもう。
 想像力は一生の宝。自由な発想は人の可能性を何倍にも広げてくれる。お金もかからない、実はとてもシンプルで簡単なことを多くの大人は素通りして、その先の心配に押しつぶされそうになっている。

 勇気は要るけど、人と一緒じゃなくていい。
幸せな子を育てたければ、自由な発想を大切に。

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なみお
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