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夏の憧憬

 憧れは、いつまでも胸の底に留まって、何かのきっかけで重く胸を圧す。

 暗くなってきた夕方。車ばかりが横を走り抜けて行く、人通りの少ない環状二号線の広い歩道で、高校生のカップルとすれ違った。付き合い始めたばかりの頃のような舞い上がった様子はなく、でも自然と笑みがこみ上げてきているのが見て分かる。おれは、胸にじわりと重みが広がるのを感じて、舌打ちしたくなる。

 はじめは、高校へ進学したばかりの頃に観た、アニメ映画だった。小説家になりたい女の子と、バイオリン職人を目指す男の子の、恋の物語。中高一貫の男子校に通っていたおれに、恋愛をする機会は全くなくて、それが、初めてリアルに(アニメ映画を見てリアルに、とはおかしな話だが)恋愛を意識したときだった。初めて、男子校に通っていることを後悔した。

 彼女が欲しい、と公言して、女子高の文化祭に通う同級生のようになれなかった。〝自然な出会い〟をする、〝バラ色の高校生活〟に憧れていた。よくある思春期の妄想。あるはずもない、ファンタジー。(「中二病」という言葉が自分の症状に当てはまり過ぎていて、大学に入ってから初めてその言葉を知ったときには苦笑してしまった。)

*   *   *

 五年前の高三の夏、自分の高校生活に終わりが迫ってきていることに焦った。バラ色の高校生活は、高校生にしか手に入らない。でも、おれはまだ、何もしていない。受験勉強に明け暮れた夏休みにも終わりが見えてきていた。親が実家に帰り、家に一人になったとき、おれは本屋で時刻表を買って、そのまま電車に乗った。

 新横浜駅に向かう電車の中で、尾道への行き方を調べる。何で知ったか忘れてしまっていたが、しまなみ海道のサイクリングに興味があった。島と島をつなぐ橋を、自転車で駆け抜ける。いかにもな冒険。そして、そこでの出会い。

 旅先でそういう出会いがあるか、不安だった。途中の停車駅の手前で減速したときに、窓の外に目を向けると、部活に行くらしい大きなバッグを持った、よく日に焼けた女子高生の姿が見える。そんなことで自分を励ましながら、新横浜の駅に着き、お年玉袋そのままに持ってきた旅費で新幹線の切符を買った。車内で全く頭に入ってこない英単語帳を眺めながら、興奮と、後ろめたさと、期待と、ある種の諦めが、胸に渦巻く。冒険と、その先にいるはずの女の子。分かりやすいファンタジー。物語に、これから出かける。

 でもそれは、主人公が物語に意識的な、物語。メタ視点を持ってしまえば、物語は崩壊する。そう思った瞬間、冷めてしまいそうになるけれど、大丈夫、と言いきかせる。『ロード・オブ・ザ・リング』の主人公の養父・ビルボ・バギンズ。若い頃冒険者だった彼も、冒険に、物語に意識的な冒険者だった。自らの冒険を、本に、物語にまとめるのだから。

 尾道は快晴だった。海の湿気が顔に纏わりつく。自転車をレンタルし、渡し船で対岸の島に渡って、自転車をこぎ出す。走り出す前から滲み出ていた汗は、すぐに滝のように流れ出し、Tシャツを身体に貼りつかせる。市街地はすぐに終わり、青い海が見える。大きくゆったりとうねる、凪いだ深い青。強い陽光がきらきらと反射した、白い光が眩しい。水面を上下する小舟の上には、小さな人が一人ぽつんと座っている。ペダルがどんどん重くなる坂道を、喘ぎながら登りきると、その先には遠近法の消失点に向かうような、長い長い橋があった。地面から立ちのぼる熱気で、揺らいで見える。脳内まで熱されたようなくらくらする頭と、冷たい水を求める喉、酷使され絞られた肺。もっと遠くへ、行きたくなる。

 時間にすれば一時間弱だったはずだが、心情的にはその倍以上、走り続けた。横浜でもよく見かけるような、メタリックな手すりのついた短めの橋と、晴れ渡った青い空の中を突っ切るような近代的な吊り橋を渡って、比較的街中の道を走っていた時だった。肌を焼くような日差しに曝され続けて、熱く火照った顔を上げると、高く張られたネットの内側にグラウンドが見え、校舎も見えた。高校の前。門から、大きなバッグを持った女の子が一人で出てくる。ちらと見えた、小ぶりな鼻が端正な横顔に、どきりとする。横浜で車窓から見た子よりも、さらに日焼けしている。この暑さの中じゃ当然だ、と思いながら、旅の目的を意識する。らしくなくても、ここまで来ているんだから、やるしかない。飲み込む唾もない渇いた喉をコクと鳴らして、おれは自転車を漕いで追いつき、声をかけた。

「すいません、この近くに、コンビニってありますか?」

 おれの汗の量を見て、一瞬ぎょっとした彼女は、ああ、と言った。

「しばらくないですよ。サイクリングの方ですか?」

 そうです、暑くて、と苦笑した顔をぎこちなく作って答えると、彼女は少し思案してから、快活に笑った。活発そうなアーモンド形の目が細くなる。

「近くの公園に、自動販売機ならあったと思いますよ。水道もあって、水飲むか水浴びることならできますけど。」

 彼女は口頭で場所の説明をしようとして諦め、案内を買って出てくれた。おれは心臓がきゅっと締まるのを感じながら、降りた自転車を押し、彼女と肩を並べて歩き出す。

 自販機で買ったスポーツドリンクを一気に半分以上飲み、水道で顔を洗う。その合間合間に、部活ですか、とか、何部ですか、とか、くだらない会話で、彼女をその場に引きとめる。

 やることがなくなり、じゃあがんばってください、とその場を後にしようとする彼女の背中に、咄嗟に呼び掛ける。

「あの、一ついいですか?」

「はい?」

 ショートカットの頭を揺らして、彼女が振り返る。

「勝手なお願いなんですけど、あの、来年の同じ日、同じ時間に、ここでまた会ってくれませんか?」

 え、と驚く女の子に、早口で言う。

「約束、だけでいいんです。守ってくれなくてもいいんです。ただ、約束だけさせてください。今日はありがとうございました。それじゃ」

 そう言っておれは、サドルを跨いで足をかけたペダルを、力任せに一気に踏み込んで、来た道を走った。強く速く脈打つ心臓が、喉を詰まらせるのを感じながら。

*   *   *

 大学に入って、女の子の友達も多くできた。大学三年の時には、彼女もできた。男女交際は、憧れていたものとは、ずいぶんと違っていた。

 でも、そうやって現実を知った後も、バラ色の高校生活への憧れは強くなる一方だった。大学では、高校生活を楽しんできたやつらと、何人も会った。そのたびに、胸の底が重たくなり、時には数日間、数週間、その重みを引き摺ることもあった。高校生活はもう二度と手に入らない。そのことに、苦しめられた。何もが、憧れには及ばなかった。

 唯一つ、あの夏の出会いだけが、憧れに近い場所にある。

 あれから毎年、おれはしまなみ海道を走り、あの公園に行っている。はじめの年、公園が見える直前、ものすごく緊張した。彼女はいなかった。おれは、酷くほっとしたのを覚えている。彼女はその後も、来なかった。その次の年も。その次の年も。はじめの年に、結局彼女が来なくて公園を後にする時、おれは、自分でも驚くほど安心していた。おれは毎年、夏になると、しまなみ海道へ出かける。

 おれがあの夏の「行きて帰りし物語」で求めたのは、まだ見ぬ姫のはずだった。でも、姫を得ることはできなかった。そういえば、『ロード・オブ・ザ・リング』のビルボ・バギンズが、若い頃にした冒険で得たのも、姫ではなかった。それは、指輪だった。その後、常にビルボの精神を脅かすことになる、危険な指輪。でも、それは、常に彼を冒険へと誘う、蠱惑的な指輪だった。おれが高三の夏に手に入れたのは、あの子との関係ではなくて、約束自体。おれの憧れを、永らえさせるもの。危険で、蠱惑的な、指輪。

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