「自助・共助・公助」の違和感
本日、衆参両院は、菅義偉前官房長官(自民党総裁)を第99代首相に選出されました。
ここでは菅総理が目指す社会像の「自助・共助・公助」というスローガンに対して抱いた私の違和感について書いていきたいと思います。
まず、率直なイメージとして浮かんだのは。。
まずは自分で独学で勉強しなさい。
もし、わからなければ周りの仲間や家族に教えてもらいなさい。
それでもわからなければ、しょうがないから学校で先生が教えてやるよ。
こんな感じです。
つい最近もホリエモンが言っていたことが、、、
「東大に入れるような人間は学校はいらない。なぜなら独学で全て理解できるから。」
能力が高い個人が最大限に活躍できる社会。
落ちこぼれは自身の努力が足りなかった結果である自己責任社会。
自助という言葉に、こういった意図をなんとなく感じてしまいます。
ブレイディみかこさんの著書を読んでいたので、サッチャー政権の個人主義に基づく新自由主義(ネオリベラリズム)と近い思想であることは私にも理解できます。
それでも私は釈然としないものがあり、もう少し思考を深めていきたいと思います。
自助とはまずは「個人」でなんとかする意味だと考えます。
そもそもこの日本に「個人」という概念があるのでしょうか?
明治時代に「Individual」という言葉が入ってきて作った造語が「個人」です。
しかし、日本では「世間」というのものが最小単位でした。
キリスト教やイスラム教のような一神教の中でしか「個人」は形成されません。
なぜなら、神様との対話において個人が内面と向き合うことで、個人の倫理や在り方を模索してきたのが「Individual」の概念です。
話しが少し変わりますが、上記のnoteが最近話題になっており読ませていただきました。
トヨタという会社も社員7万人ほどの「世間」であり、世間の中には「個人」は必要とされてないし、存在してはいけないことがこの記事からも読み取れます。
私が新卒で会社に入社した2000年代あたりから成果主義のような人事システムが採用され始めました。
会社の中で競争して強い個人になれと言われても日本人にはどだい無理です。
みんなそんな強くないし、「会社=世間」のルールに縛られているから鬱病や自殺者が増えるだけの結果だったのです。
話が脱線しましたが、、、
要するに「自助」という言葉自体が矛盾にみちていて、個人という概念がない日本人には無理が生じるということが言いたかったのです。
次に、「共助」を考えてみたいと思います。
これはまさに「世間」です。
会社など機能している面もありますが、昔でいう醤油の貸し借りなどのご近所付き合いの地域コミュニティーは衰退しているのではないでしょうか。
昨今のコロナ渦における「自粛警察」などは「世間」による「同調圧力」という日本特有の悪い方向への作用のあらわれです。
コロナ感染者が謝罪したり、差別されたりとまさに世間様にご迷惑をかけたものに対しては日本は非常に冷酷な国です。
「共助」とは今や世間に迷惑かけないでいることなのでしょうか?
菅総理に是非ともお伺いしてみたいところです。
私が危惧していることは、今回の自粛警察や関東大震災時の自警団による在日朝鮮人に対する虐殺など「共助」が理不尽な行いに行き着くことです。
日本人は不安や恐怖、やり場のない怒りを自粛警察や自警団のような手段で互いに群れて弱いものを攻撃する特性があると思います。
そういうことも含め「共助」にもある種の恐怖を感じるのです。
日本の高齢者(65歳以上)人口は3588万人で、総人口に占める割合は28.4%にのぼります。
この老人たちに
「個人の力でなんとか生きていけ!」
という菅総理の真意はなんなんでしょうか?
解散選挙時にもこの論法でいくと票が取れないのではと思ってしまうのですが、、。
私が出会った団塊の世代の高齢者達は、会社という非常に強い「世間」しかなくて、そこで猛烈に頑張ったんだけど、結局、定年で退職した瞬間に唯一の「世間」を失ってしまうという。
つまり、高齢者ほど共助=世間もなく、公助もそんなに期待できない現実があります。
菅総理!そもそも「自助・共助・公助」では少子高齢化大国の日本においては無理ゲーであると、ご報告させていただきます。