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『noteEXPO2021』に参加! 絶望した時こそ夢や希望が必要な話。
私の夢。
40を過ぎると少し気恥ずかしい。
「四十にして不惑」という孔子の言葉が実はまったく違う意味であることを以前note記事にて書いた。
上記の私の記事を読んでいただけたら嬉しいが、以下のような意味合いで孔子は語ったのである。
40歳になったら、自分の檻を破って、
「人間とはこう言うものだ、世の中はこういうものだ」
という思い込みを離れよ!」
40歳まで私は自分の檻から抜け出せない人生であった。
「夢」というものさえ持ったことがないほど、自分の親やまわりの環境の価値観に支配されて生きていたのだ。
しかし、ブログやnoteにおいて文章を書くということに喜びを見出した自分を発見した。
40を過ぎて初めて夢をもった。
数年前に以下の上坂さんの著書を読み、感化された。
✅「ブックライター」として本を書きたい!
✅将来的に自分の大好きな川崎フロンターレの選手、特にこれから海外移籍し世界に羽ばたくであろう三笘薫や田中碧の自叙伝的な本を書くこと。
これが私が密かに抱いている夢であり、目標だ。
ここ2年ほどブログやnoteで文章を書くことの楽しさや奥深さを知った。
「より善く生き、書いていく。」をモットーに、文章力や構成力を磨くことに精進していきたい。
ブックライターは一昔前まではゴーストライターのような陰日向のような存在だったが、現在は出版業界において地位を確立している。
今後はnoteでより良いコンテンツを提供し、ライター養成講座などを受けることで夢に近づいて行けたらと思う。
この企画を開催してくださった奥田さん、のみやさん、ないとさん
そして読んでくださったnoteEXPO の皆さまありがとうございました。
これから皆さんの記事を読み、たくさんの方の応援にまわりたいと思います。 ”なみへい”
*この後の文章は「絶望した時こそ夢や希望が必要な話」という少し今回の企画とはずれたものかもしれません。
せっかく「夢」というテーマをいただいたので書いてみました。
お時間のある方が読んでいただければ、幸いです。
私は関西の生まれである。
幼稚園〜小学校3年生まで兵庫県尼崎市で育った。
そう、あのダウンタウンが育ったアマである。
組どうしの抗争でピストル発砲事件なんて日常茶飯事の尼っ子だった。
今思うと結構サバイバルな環境だったような気がする。
ダウンタウンが良く言っているような上半身裸のオバハンはさすがに見たことはなかったが、とにかくファンキーな街であった。
子供同士の殴り合いのケンカなんてまったくもって普通の日常だった。
そして、小学校4年時に父の転勤で埼玉の限りなく東京に近い埼玉県W市に引っ越した。
(ちなみにW市特集の「アド街ック天国」を最近観たが、W市民は自分たちのことを埼玉県民ではなく限りなく東京都民に近い存在である事を主張していた。)
15階建てのマンションがA棟からK棟まである当時としては高級なマンモスマンションが我が家となった。
そして一流企業に勤めているマンションの子供たちしか通わない小学校に入った。
(私の父も財閥系のメーカー企業勤めだったので家賃補助は潤沢に貰えていたそうだ。)
尼崎からそのW市への転勤は私たち家族にとって大変なカルチャーショックだった。
ここでは私の母の話をする。
私の母は長崎の大村で生まれ、六人兄弟の末っ子であった。
小学六年生で母親を亡くし、中三の年に父親を亡くした。
それからは親戚中をたらい回しにされ、なんとか地元の商業高校を卒業し、大阪に出てきて就職し社内恋愛で私の父と結婚した。
苦労が多かった母の人生の中で身につけた術が、コミュニケーション能力と適応能力であった。
母は自分の能力を存分に活かし、この巨大マンション生活に順応した。
マンション内にテニスコートが2面あるのだが、週4ペースほどでテニスをして、マンション友達を増やしていった。
よくテニス大会が開催されていたのだが、母は毎回優勝か準優勝をかっさらっていた。
そして尼崎時代からやっていたドライフラワーの先生をやったり、お琴の先生を家に招きお琴教室を我が家で開催していた。
朝も共働き夫婦の子供を預かって学校や保育園に行かせたりと、年がら年中誰かしら知らない人が家の中にいたような気がする。
そして何かしらのパートをやっていて、母は毎日超多忙な生活であった。
この巨大マンションに完全に適応した母であったが、子供の教育に関しても思いっきり影響を受けてしまった。
偏差値の高い中学、高校、大学に入り、一流企業に入ることが人生の成功だということを。
私の父も国立高専の出で、大学には行っていない。
母は父の出世ができない原因は大学を出てないからだ、とよく言っていた。
当時サッカーに夢中になっていた私も小学6年生の後半くらいから、無理やり塾に入れられて、いやいや塾に通った。
どうやら仲のいいママ友の子供が早稲田実業に受かり、母は早実に夢を抱き、早実がいかに素晴らしい学校かを私にしきりに宣伝してくるのである。
私の母はやはり田舎の人であり、当時の中学受験を完全に甘くみていることが問題だった。
当時の私のクラスの秀才たちは4年生くらいから四谷大塚に通い、開成、武蔵、麻布という御三家を狙っていた連中がわんさかいた。
私は通っていた塾の塾長に早実は絶対無理だということを母に伝え諦めさせてください、とお願いした。
しかしながら塾長も商売なので実現可能な偏差値レベルの中学を検討しようということになった。
なんやかんやしてるうちに中学受験日がきた。
受験の当日、私は納得がいかない中学を受けるのが嫌になり、グズリそして部屋にこもった。
そうこうしてるうちに父が怒り狂い、金を捨てるような事をするな!と受験前の子供の頭を殴り、タクシーで無理やり試験を受けさせられたことを覚えている。
もちろん、そんな状況で受かるわけもなく受験番号を見にいった記憶などない。
無駄な交通費をかけて、誰が行ったんだろうか。
結局、わたしの通っていたマンション小学校のクラスメイトの3分の1が私立中学へ行った。
公立の中学に入った私は母の言いつけに従い、池袋まで塾にいかされることになる。
しかし、高校受験でも母の希望の早実には受からなかった。
ただ沿線の中では一番偏差値の高い私立の進学校には合格した。
午前中にその高校に行き合格番号を見つけて、すぐに家にいる母に電話で朗報を伝えた。
母がとても喜んでいたことを今でも覚えている。
なぜなら、その日の夕方に母はわざわざ自分の目でその合格番号を見に行っていたからだ。
その後、私はその男子校で悪いグループに入りやんちゃして停学処分になったりと色々とあったが、なんとか名前の通る大学には入学できた。
大学ではどうせ会社に入って働くのだからと、散々遊びほうけた。
ところが、バブル崩壊後の就職氷河期に我々世代がバッチリはまってしまったのである。
しかも雇用倍率1倍を唯一割った2000年3月卒の生粋の超氷河期という始末だ。
一流企業の採用枠は国立早慶枠以外は無いに等しい状況であることを先輩たちから聞いていた。
就活の最初はミーハーにも広告、出版を中心にOB訪問をしていたが、現実の厳しさに早くも挫折し、就活するやる気が失せてしまった。
そんな時に、あのスーパーエネルギッシュな母が骨髄ガンとなり余命半年の宣告を受けた。
しかし、私には落ち込んでいる暇などなかった。
なんとかして私には絶対に内定を勝ち取らなくてはならないと考えた。
それは母が息子に期待した成功を最後に見せなければならないからだ。
もう自分の希望業種なぞどうでも良かった。
なんとしても有名企業もしくは東証1部上場企業に入って最後に安心して欲しい思いで必死に就活した。
しかしながら、何十社受けても、ご縁がございませんでした通知ばかり。
私は焦りと自暴自棄のあまり何週間か酒をかっくらい、最後の賭けにでた。
自分の大学の就職部の部長に直談判しに行ったのである。
母の余命の話やらバイトエピソードで根性があることをアピールしまくった。
「とにかく大企業でならどこでも懸命に働きます!」
と思いの丈を部長にぶつけた。
その就職部長は最初は私の服装が気に入らないと説教し始めたが、唐突にその場で電話をしてくれて、東証1部の大手建設業の面接アポを取ってくれたのである。
その代わり、受かったら絶対に行け。との条件付きなのは言うまでもない。
その建設会社は大学の新棟の建設請負先とのことで、いわゆるバーターである。
なんとかその企業から無事に内定をいただき、母にどれだけ大きい会社で、しかも安定した大企業であるかを必死にアピールし、自慢げにスゴイだろ!と報告することができた。
髪の毛もなくり痩せ衰えた母は「良かった、良かった。これで安心ね。」
と小さな声で言ってくれた。
そして、大学4年の12月に母は亡くなった。
*****
団塊ジュニア世代の私たちの夢や希望は団塊世代の成功体験の価値観を濃厚に引き継いだものの、社会情勢によりその夢は実現不可能になったということは事実である。
そして、強烈な団塊世代の価値観に抗うこともできず、思考停止になってしまった世代がロストジェネレーション世代である。
ロスジェネ世代として社会から見捨てられ、それでも親の世代の成功体験の価値観にしがみつき、ますます八方塞がりになってしまった世代なのかなと思う。
そして、日本経済が失われた20年、30年となってしまったことは、少なからず我々ボリュームゾーンの団塊ジュニア世代が古いシステムに固執して、新しいシステムへ移行できなかったことにも大きな責任がある。
この話をした訳は、私の就活時には夢や希望など皆無であった。
むしろ母の死を目前にさらされて絶望でしかなかった。
でも絶望の中で希望の光をさがすのが人間であると感じた。
母を喜ばせるため、親孝行はできないけど自立した自分の姿を母にみせることが私の夢になったのである。
仮に悲しみに暮れて就活もせずに、母の看病(実際には何も役に立てないのだが、、。)をしていても、母は喜ばなかったはずだ。
本当は抗がん剤と戦い、苦しんでる母の側で自分なりに励まし、少しでもそばにいたかったのが本音である。
もっとぶっちゃけると、母のそばで少しでも甘えたかった。
しかし、絶望や孤独の中でも希望や夢を持ち、力強く生きていく力を与えてくれたことを、最後に母が私に教えてくれたものだと信じたい。
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以上、長々と暗い話にお付き合いいただき、ありがとうございました。
東日本震災やコロナ渦と日本や世界では多くの絶望があります。
しかし、私たちはこのnoteEXPOのように夢を持ち、繋がることから救われる人がいることは間違いないと思います。
これからは利他の精神が必要になるのかな、と個人的には思っています。
利他について今度は書いていければと考えています。
最後まで読んでくださった方、重ねてありがとうございました。
なみへい
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