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唯立つ木
娘が生まれる前、インドで出会った友人が我が家へ遊びに来て「こどもが生まれたら暫く出来ないだろうから、キャンプでもしようよ」ということになり、妊娠中にやってきた、湖畔に浮かぶ弁財島へ、20年ぶりに向かった。
記憶を頼りにするまでもなく、今はちょっとした観光地になっていて、道も綺麗で迷うことなく辿り着いた。制作の区切りをつけてから、のんびりと家を出たので着いたのは夕刻に近く、平日ということもあってか、私以外誰もいなかった。車を停めて歩き始めると、湖畔をぐるりと回遊する林道の整備のために作業をされている方がいて、頭を下げながら作業の脇を通らせていただき、半周先にある入り口まで15分ほど、ヒグラシの声を心地よく浴びながら当時を思い出して歩いた。
20数年前もこの木々は、当時の私達を見ていただろう。あれから私は、住居地を変え、環境も変わり、動き続け回り続け、思い出したように今日、ふたたびここまで車を走らせて、この目の前の木々と対面しながら過去を振り返っている。その間、木々たちは、ずっとここで根を伸ばし、枝を伸ばし、実をつけ、種をこぼして、年月を過ごしてきた。
同じ生命という成長過程。だが、極端に性質が違う。動く物とは本当によく言ったものだ。身体も頭の中もぐるぐる動き回って生きなきゃ、どうしようもない。動物と植物の差異を考えながら、私は木の前で立ち止まり「お久しぶりです。」と軽く一礼し、木を撮った。
薄暗い空を見上げると、遠く雷鳴が響いている。湖名に由来する竜の仕業かと参道を急ぎ、ひとまず島の弁財天に手を合わせた。
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このところ身の回りでザワザワとした出来事が起きている。人生の中でそういう時期に差し掛かったのだと思うが、親しく過ごしてきた友人達の心労を思うと、堪らぬ。遠く離れていながら日々私ができることを積み重ねたい。そう思って機をみて祈っている。祈りなんて、形も、効用も、数字化できない。実証性のないものをと、鼻で笑われるかもしれない。けれど、そもそもカタチのないものへ手を伸ばし、表出させる抽象画を描いている私にとって、描画も祈りも、同じ感覚を使うわけだから、身体的にはリアルなのだ。それに、私自身は無宗教者だけれど、私の祖父は牧師だったからか、昔から神様は、身の回りにいるものとしていた。だからあながち頓珍漢な行動には思えない。まあ、たとえ頓珍漢だったとしても、それが今の私にとって、日々積み重ねられるものなのだから。どうしようもなく、ただ行うのみ。
けれど、祈るといっても結局は、社や御神前に立って、手を合わせ、何となく、大木の中を光が貫通するような、そんなイメージを自分の身体を通してしているだけだから、これを本来の祈りと混同するのは些か見当違いかもしれない。私の祈りというのは、この目の前の木々たちのように、唯まっすぐに立つだけなのだ。私の身体を何かが貫通し、祈りの先に届けば、それでいい。