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そよぐ風と吹く嵐を分かつもの
私の住む街は今日8月15日は「精霊流し」という一大イベントの日です。
夕刻になると初盆の家と、町内会から「精霊船」という山車が出され、繁華街を抜けて港を目指します。
町内の世話役や若い衆が中心となる町内会の舟、
無くなった方の親族や縁故、友人、知人までかり出すのが、初盆の舟。
精霊船のサイズはまちまちで、大きな舟は十メートル程度のものもあり、数十人の担ぎ手が活躍します。
街の有力者や名士の初盆だと立派な精霊船が造られます。
私が子供の頃はまさに最盛期だった精霊流しも、年々規模は縮小しており、昔は3,000〜4,000隻の精霊船が港を目指して、爆竹を鳴らし、花火を飛ばし、時に巨大な精霊船を担ぎ手が走りコマのように回したものですが、
今は、爆竹や花火も規制が厳しくなり、舟を回す事も禁止された様です。
怪我人が多発し、死亡事故もありましたから、時代の流れと共に安全性重視になる事は必然でしょう。
景気の低迷、コロナ禍、も追い打ちをかけ、以前の様な賑わいは望めません。
それでも、この街にとっては特別な日です。
精霊流しに限らず、祭りの後は「物寂しい」ものです。
祭りが華やかであればあるほど、その後は「物寂しい」ものです。
夏の終わり、夕暮れ時、「物寂しい」感情をかき立てるものは探さずとも有ります。
そして、この「物寂しい」感覚は、誰にも有ると思います。
愛情溢れる家庭で健やかに育った人にも、
機能不全家庭で育った人にも、
「物寂しい」感覚は有ると思います。
ただ、その度合いは等しく無い、と思っています。
健やかに育った人の「物寂しい」感覚は、
例えるなら風がそよいだ感じでしょう。
先程まで賑やかで華やいでいた夏祭りが終わり、家路につく人、人、人。
「あぁ、今年の夏も終わりだな」と思った時に、そよいだ風です。
ふっ、と寂しくなります。
その気持ちは人生の彩りです。
機能不全家庭に育った人の「物寂しい」感覚は、嵐です。
賑やかで華やいでいる祭りの最中ですら、「物寂しい」予感があります。
祭りを楽しむ人の中に居ても、自分には心底楽しんでいる感覚が薄いのです。
周りは楽しんでいるが、自分は楽し「そう」にしているだけだという疎外感がつきまといます。
そして「物寂しい」予感は的中し、祭りは終わります。
家路につく人混みの中で、楽しんだ人とは同じでは無い、はじかれた自分を感じます。
胸を内側から掻きむしられる様な感覚です。
「とてつもなく」寂しいのです。
それは、心の奥の嵐です。
愛情溢れる家庭に育って、健やかな心を育んだ人であっても、心に傷はあります。
しかし、その人には愛情の土台があり、「自分には価値が有る」という感覚を持った上での傷なのです。
何があろうとも、自分には価値が有るのですから、祭りの後の「物寂しい」感覚は、そよぐ風であり、人生の1ページを彩ります。
機能不全家庭に育った人は、既に心は傷だらけです。
愛情の土台が無い為、「自分には価値が無い」という信念にも似た強固な思い込みを抱え込んでいます。
そんな無価値な自分は、傷つけば、傷ついただけ、揺らぎます。
深く深く傷つきます。
楽しい筈の夏祭りにも疎外感を感じ、祭りの後の家路を急ぐ人混みに揉まれるうちに、寂しさの嵐に晒されている様な気持ちになります。
愛情の土台が無い、人と愛情で繋がった経験が無い為、人と繋がる感覚を知りません。
それが、楽しい筈の祭りの最中に感じる疎外感です。
愛情溢れる家庭に育った健やかな人も、思春期の頃には、この嵐を経験する事もあるかも知れません。
疎外感、孤独感、寂しさなどが嵐の様に襲って来る感覚を知る健やかな人は少なく無いでしょう。
思春期は自立に向けた、子供の自分を卒業する季節です。
心は揺れ動き、身体は成長します。
バランスを取ることが難しく、出来事があれば右に左に傾き、出来事が無くても、悩みに沈みます。
しかし、健やかな人にとっては、この嵐の季節は通過儀礼です。
自分の中にある「自分には価値が有る」という感覚を頼りに歩を進めます。
大人への階段を登ります。
機能不全家庭に育った人は、子供らしい子供時代が無かった人です。
子供らしい子供時代とは、自分の感情を素直に表現する事が許された子供時代という事です。
親の顔色を伺い、親が望む子供を演じる必要が無い子供時代です。
それが叶わなかった人が、機能不全家庭に育った人です。
「自分には価値が無い」と思い込みます。
有価値は生きる上での土台です。
その土台が揺らいでいるこの人は、年齢に応じた発達課題をことごとくクリア出来ません。
発達課題をクリア出来ないという事は、思春期という嵐を乗り切る準備が出来ていないという事なのです。
準備不足のその人は、子供時代を不完全に卒業し、不完全燃焼な思春期を過ごします。
不完全燃焼の思春期は、通過儀礼とはならず、いつまでも不完全燃焼のススのまま、その人にへばりつきます。
嵐は季節であるからこそ、揉みくちゃになっても乗り切れます。
しかし、不完全燃焼の思春期は、通過儀礼にはなりません。
その人は嵐を胸に閉じ込めます。
その人の胸の中で嵐は吹き荒れる事になります。
季節だからこそ乗り切れる嵐を、その人は胸に閉じ込めたまま、大人になります。
嵐は生きづらさとなり、何か事があれば猛威を奮うのです。
何も無い時には胸の中で重々しい存在感を示し続けます。
本来、短い季節だからこそ乗り切れる嵐を、その人は10年20年、もっと長く、場合によっては生涯、抱えて人生を歩きます。
嵐は生きづらさと書きました。
嵐に疲れ、
生きづらさを手放す事を願うなら、
自分と向き合い、
傷だらけの幼い自分を癒す事が必要です。
本当は真っ直ぐに伸びる筈の感情を、捻じ曲げなければならなかった、幼い日の自分の怒り、悔しさ、無念を探して、すくい上げて下さい。
幼い日の自分を癒すのも、
生きづらさを手放す事も、
すべては、自分にしか出来ない事なのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム