失敗は成功への階段なのに
心に重大な無価値感を抱える親は、子供に成功を求めます。
子供の目線まで降りたり、子供の歩調に合わせたり、子供の成長を待つことが出来ません。
いきなり成功することを望むのです。
子供の人格を尊重していないからです。
そもそも生きる目的が、自分が抱える重大な無価値感から目を背けること、になってしまっているので、
我が子に限ったことでは無く、心理的には他者の存在すら輪郭線が曖昧です。
無価値感と他者の輪郭線については、長くなるので今回は脇に置かせて頂きますが、
つまり、心に重大な無価値感を抱える親は、無価値感から目を背けることに、いっぱいいっぱいで、
他者に執らわれながら、他者を認識出来ない、尊重出来ない、極めて独りよがりな精神世界に生きています。
目の前の他者を必要以上に大きな存在に祀り上げたり、逆に軽んじたり、対人的な距離感や認識がとても不安定です。
そんな不安定な対人関係の在り方なのですが、我が子に対してだけは、固定的とも言える程に、認識が安定しています。
それは、軽んじて構わない存在という認識です。
尊重に値しない、頭ごなしに否定して良い存在という認識です。
広いこの世界で、たった一人、自分の思う様に扱って良い存在が、我が子です。
何故でしょうか。
従属物であり、所有物であり、装飾品だから、です。
自分がこの世に産み落としてあげた生命だからです。
証拠も有る、と親は感じています。
だってこの子は、どんな扱いをしても自分を慕って来るのです。
都合よく扱っても慕って来るのです。
慕って慕って慕い尽くすのです。
それが証拠だ、と感じています。
勿論、その親は、そんな酷い事を自分が感じている、とは意識しません。
その親は、自分の事を愛情深い、と思っています。
この子の事を思っている、と意識しています。
慈しむつもりで、傷つけます。
与えるつもりで、奪うのです。
その子は生まれた時から、そう扱われます。
育つ程に傷だらけになって行きます。
それでも心の治癒力は測り知れません。
その子は慕っては貶められ、また慕っては利用され、傷つきながらも心の治癒力に助けられ、何とか持ちこたえようとします。
しかし、親のその子に対する認識は固定的です。
その子は、ぽっきり折れるか、持ちこたえるかの苦しい子供時代を過ごすことになります。
親は、優れた子の親であることに固執します。
優れた子の親、と褒められたいのです。
その子が優れているかどうか、という事に興味は無く、
自分が優れた子の親であること、に固執します。
その子の努力や工夫や根気には関心が有りません。
その子が通ったプロセスには興味無し、です。
「最初は出来なかったのに、この子は頑張った」
とは感じません。
この子の頑張り、をいじらしく思うことは有りません。
それどころか、努力、工夫、根気、頑張りを好ましく思わないことが少なく無い様に思います。
この親が理想的だと感じる状況は、自分が産んであげた子が、自分が与えてあげた才能で、成功を収めること、です。
仮にそんな事が起きたとしたら、天賦の才であろうが、その子の頑張りであろうが、
コンクールで優勝した、その子に賞賛は集まります。
全国模試でトップになった、その子が褒められます。
優れたその子自身が褒められるのは当たり前ですが、親は面白く無く、子供を妬ましく思い、難癖をつけたりします。
その親の動機はいつも、抱える重大な無価値感であり、
もっと言うなら、その親が幼少期に踏みにじられた幼児的万能感です。
それを無意識のうちに、この世でただ一人、何をしても自分を慕う存在に、全部背負わせます。
だから、子供の目線に降りることも、子供の歩調に合わせることも、子供の成長を待つことも出来ません。
挑戦すれば成功よりも失敗の方が遥かに多いものです。
成功に辿り着く人は、常人の何倍も挑戦し、失敗した人です。
失敗から学び、それが経験の蓄積となり、成功へと繋がります。
失敗は成功へと続く階段そのものと、言えます。
心に重大な無価値感を抱える親は、階段を登る我が子を待つことが出来ません。
自分が産んであげた子に、自分が与えてあげた跳躍力で、
階段を使うこと無く、成功まで跳び上がることを求めます。
過ぎた結果至上主義には、大半の場合、述べた様に成育過程に原因有りき、だと思うのです。
いつも何かに追われ、
いつもいっぱいいっぱいで、
人生の景色を眺める暇も無く、
走り続けている自覚が有るならば、
勇気を持って立ち止まり、
どうして走らずにはいられないのか、
考えてみることも、
必要ではないでしょうか。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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