それ、個性ですよ
人にはそれぞれ個性があります。
個性には長所とおぼしき部分や、短所と思われる部分が含まれます。
そして長所と短所は独立したものでは無く、表裏一体の構造になっています。
とても思慮深い子が居たとしたら、その子は活発さに欠ける場合が多いでしょうし、
活発な子は逆に、思慮に欠けおっちょこちょいな場合が少なく無いと思います。
優しい子は強さが足りないかも知れませんし、
強い子には、弱い子の気持ちが解らない側面があるかも知れません。
私達はポジティブの数だけ、ネガティブを持っています。
長所があれば必ず短所と抱き合わせになっています。
自分には良い所なんか何も無い、と言う人が居ます。
その人は、自分には光りが無く、影だけが有る、と言う訳です。
でも、影って光りが射さない所には出来ないんです。
その人がどこまで頑固に言い張っても、
光りと影も、長所と短所も、抱き合わせです。
では何故その人は、自分には良い所が無い、と言い張るのでしょうか?
おそらくは、その人の傍にはいつも、短所ばかりを拾い上げる人が居た筈です。
短所ばかりを拾い上げる人は、その人の親です。
本当は親こそが自分自身のことを、短所しか無い、と思い込んでいます。
だからその人に、ここが悪い、あそこが悪い、と指摘して貶め、
自分の方が上だ、自分は優れている、と思っていないと不安なのです。
親はその人を、不安から逃れる為の道具、にしたのです。
親が抱える不安の正体は、無価値感、です。
親は自分を無価値だ、と思い込んでいます。
つまり、自分に絶望しています。
自分に絶望した人は、自分は劣った存在で、優れた存在にはなれる筈が無い、と固く決めつけて生きています。
だから、自分が優れた存在になろうなどとは思いたくても思えないのです。
だから、短所を見つけて、責めて、貶める対象が必要になります。
親は子供に絡みついて、短所を見つけては責める事で、束の間でも、自分が優れている様に錯覚する事で生きています。
子供が劣った存在だと思う事で、相対的に自分の価値が上がった様に感じる訳ですが、
実際には、自分が優れた存在になった訳では無いのですから、
我が子を貶めても、錯覚は錯覚でしか無く、直ぐに不安が首をもたげます。
だから親は、今日も明日も明後日も、子供の欠点を探しては、責め苛みます。
そうやって、来る日も来る日も欠点や失敗ばかりをすくい上げられ、責め苛まれたら、子供は自分には良い所など無い、と決めつけてしまいます。
言ってみれば、親は子供に、自分の不安をそっくり背負わせて、自分だけ身軽になった、と言えます。
親から不安を背負わされて、
自分に良い所など無い、と決めつけている人が、気がつくべき事は、
自分に長所が無いのでは無く、親に子供の良い所を見る能力が欠けていただけ、だという事です。
人が最も認めたく無い感情は、無価値感、です。
自分には、良い所などひとつも無い、と思い込んで生きるのは、とてつもなく苦しい事です。
人が十人居たら、長所、短所も十通り、
百人居たら百通りです。
長所だけの人は存在せず、短所だけの人も居ません。
光りが射して影が出来る様に、長所と短所は抱き合わせです。
光りの分だけ影が出来るのですから、良い所、悪い所と、分ける事にさえ、本来意味は無く、
悪い、悪い、と責め立てたのは悪い所をわざわざ探す親です。
親から、活発でないのは悪い事だと責め立てられたその人は、思慮深いのです。
親から、弱虫と揶揄されたその人は、きっと優しい筈です。
光りと影、表と裏、
みんな持ってます。
ぜんぶ持ってます。
自分の心を長所と短所に分けて捉える事に、あまり意味は無く、
ましてや、短所に固執する事は、自分を苦しめる事に繋がりかねません。
今、自分には少しも良い所など無い、と思い込み、苦しむ人が在るならば、
長所も短所も、全部まとめて受け容れたなら、
それが、かけがえの無い、
誰とも被らない、
あなたの素敵な個性ですよ、
そう声をかけたいのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム