励ますつもりで傷つける人
情緒未成熟な親は、子供の心の成長を阻害します。
しかし、その情緒未成熟な親に子供の心の成長を阻んでいる自覚はありません。
ありったけの愛情を子供に注いでいる、と信じ込んでいます。
自分の事はさて置いて、子供の幸せだけを願っている、と思っています。
自分は愛情深い親だ、と悦に入ってさえいます。
しかし、悦に入る時点で意識は、自分、に向いています。
本当にありったけの愛情を注ぎ、子供の幸せを願う親は、悦に入る筈がありません。
その親の意識は、常に自分に向いています。
悦に入る親は、惜しみなく与えるつもりで、限りなく奪う親、なのです。
たとえば、その親は、励ますつもりで子供を傷つけます。
褒めているつもりで、貶めます。
「何にも出来ない子だと思っていたけど、今回だけは上手に出来たね。」
それがその親の、褒め言葉、です。
「何にも出来ない子」と「今回だけは」は、励まし、を送るつもりならば相応しくない言葉です。
言わなくても良いというよりも、言ってはならない事ですし、
言われた子供の気持ちを思いやっていれば、言おうとすら思わない台詞です。
言われた子供は、慕って止まない親から、自分は何にも出来ない子、だと思われていた事に傷つきます。
今回は、たまたま上出来だったんだ、と思い、自信などつく筈もありません。
でも、その親は、最大限の賛辞を子供に送ったつもりになっています。
最大限の賛辞を送られた筈の子供は、傷つき、
傷つけられた事によって怒りが湧き上がりますが、
嫌味の様な遠回しの表現に怒る訳にもいかず、怒りを無かった事にして、親に調子を合わせて笑顔を作ります。
親はその子が傷ついた事にも、その子が湧き上がる怒りを無理矢理無抑え込んだ事にも、気がつきません。
賛辞を送った自分は、愛情深い親だ、と只々悦に入るのです。
どうして、その親は惜しみなく与えているつもりで、子供を傷つけ、
傷つけた事に気がつく事すら無いのでしょうか?
それは、その親が、思いやることが出来ない人、だからです。
ではどうしてその親は、子供を思いやることが出来ないのでしょうか?
それは、その親が幼かった頃に思いやられた事が無かったから、です。
その親が、一人の人として尊重される親子関係に身を置いたことが無いからです。
その親は、尊重する、という事も、
思いやる、という事も、知らない、という事です。
勿論、その親は、尊重、という言葉も、思いやり、という言葉も知っていますし、
何なら、尊重って何?、思いやりとは?、と問われたなら、
尊重という言葉の意味も、思いやりという言葉も意味も、上手に説明出来るでしょう。
しかし、その親は実際には他者を、尊重する事も、思いやる事も出来ません。
それなのに、その親は、子供を尊重し、思いやっている、と思い込んでいます。
心理的虐待をする親は、自分が子供を虐待している、などとは思っていませんし、
虐待されている子供も、虐待されている、とは思っていない場合が殆どです。
その親は、先に述べた様に、子供を尊重し、思いやっている、と思い込んでいるのですから、
虐待しているなどとは思いも寄らないのです。
子供は生まれた時から、そんな思いやりの欠けた親子関係を、
愛情溢れる親子関係だと信じさせられ、
遠回しな嫌味混じりの言葉を、励まし、と受け取り、
傷つける親を、優しい人、と思い込みます。
すると、その子は年齢を重ね、幼稚園、小学校と進み、親子関係以外の社会的な繋がりを持つ様になっても、
幼少期の親子関係によって身についた、人間関係のひな型、に沿って他者と接します。
親に倣って、友達を励まします。
親がかつてやった様に、遠回しの嫌味を励ますつもりで、友達にぶつけます。
友達は傷つき、その子から離れて行きます。
友達が去ったので、その子は新たな友達を作ろうとします。
親と同じ様に、傷つける言葉をぶつけて来る人を、優しい人、だと思い、傷つけられながら、友達、になります。
心理的虐待を受けて育った子は、優しい人を傷つけ、遠ざけ、
自分を傷つける人にわざわざ近づきがち、です。
幼少期に、傷つける言葉を、励まし、と受け取ったから、です。
傷つける親を、愛情溢れる優しい人、と信じ込んだから、です。
その歪んだ、人間関係のひな型、を使って人生を歩むのですから、
その子は、懸命に生きれば生きる程に、生きづらくなって行きます。
幼い子供は、親を慕って止みません。
幼い子供は、無力であるが故に親を慕う事で生きる仕立てになっています。
子が親を慕い、親が子を思いやる事が自然の摂理であるにも関わらず、
親が子を自分の従属物として見做し、一人の人として尊重する事の無い親子関係、に身を置いた子供の幼少期は、過酷という言葉では表す事が出来ない程、残酷なもの、と言えますが、
そんな幼少期を過ごさざるを得なかった子供が懸命に生きれば生きる程、極めて生きづらい人生になって行く事が、本当の残酷さだと思っています。
親は自分を愛情深い、と思い込んでいます。
子供はそんな親に取り込まれて、傷だらけになりながら、
それでも、愛された、と思い込みます。
生まれた時から、傷つけられ、蔑ろにされながら、
これが愛だ、思いやりだ、と擦り込まれ続けたのですから、無理もありません。
だから生きづらい人が、自分が抱える生きづらさに気がついたなら、それだけで、既に尊いと私は思っています。
無理を道理に変え、奇跡とも言うべき気づきに辿り着いたのですから、それだけで尊い事だと思うのです。
生きづらい人は、自分を過小評価します。
奇跡の気づきに辿り着いた、自分の尊さ、に目を向ける事がありません。
守られて然るべき幼少期に、傷つけられ続けたにも関わらず、
生きづらさを手放そうとしている、自分の尊さ、に気がついて欲しいのです。
生きづらさを手放すことは、
自分を受け容れること、です。
先ず最初に、
奇跡の気づきに辿り着いた自分、を手放しで褒めて欲しいのです。
かつて親は、手放しに褒めてはくれませんでした。
「何にも出来ない子だと思っていたけど、今回だけは上手に出来たね。」
そんな思いやりの無い言葉を沢山浴びせられました。
だから今、奇跡の気づきに辿り着いた自分を手放しで褒めて欲しいのです。
自分が自分の親になって、
照れずに、真っ直ぐに、
ありったけの優しい言葉をかけてあげます。
スゴいね!
強いね!
よくやったね!
大好きだよ!
傷だらけになりながら、
それでも気づきに辿り着いた自分を、
どうか手放しで褒めて下さい。
照れないで、真っ直ぐに…、です。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム