大切な人を失うとき
生きづらさの最中にある人の多くが口にする典型的な言葉が幾つかあります。
たとえば、生きづらさを抱えたまま母親になった女性で、
「私は毒親でしょうか?」
と言う人はとても多い、と感じています。
或いは比較的若い人ならば、
「誰も解ってくれない。」
と言う人も少なくありません。
同じ類いの言葉を発しても、人の心は其々に違っていて、
その人の背景も、心情も、生きづらさも、その人独自のものであり安易に、同じ生きづらさ、である、と括ってしまう事は、避けなくてはなりませんが、
発せられる言葉がとても似ている場合が多いのも事実です。
「私は毒親でしょうか?」と「誰も解ってくれない。」については、過去の記事で何度か取り上げているので、本記事では触れません。
今回お話ししたいのは、
「この人がいなくなったら私はひとりになってしまう。」
というものです。
これも生きづらさを抱える人がよく使う言葉です。
恋人であったり、友人であったり、対象は様々ですが、
その悩みを抱える人に共通しているのが、親から否定的に扱われる幼少期を過ごし、自分という存在に対する安心感が無い、という事です。
その人が悪い訳では決してありません。
その人に安心感があるか、はたまた無価値感に苛まれるか、は幼少期の親子関係に原因があります。
心のこと、は、自分の心の中にしか原因も責任も無い、と思っていますが、
生きづらさを抱えるに至る原因と責任だけは、徹底的に無力な幼い子供にはありません。
幼少期の親子関係に於いては、パワーバランスは、圧倒的に親に偏っています。
幼い子供にとっては、親が全てであり、親が世界なのです。
幼い子供は、徹底的に無力であり、親が居なくては生きて行けません。
そんな幼い子供に生まれながらに備わった唯一の能力が、親を慕う能力、です。
幼い子供は、只々親を慕います。
慕って慕って慕い抜き、親から保護されることで、生きる仕立てになっています。
親が、親となるに相応しい段階まで情緒が成熟しているならば、自分を慕って止まない我が子の姿は、
いじらしく、愛おしく、無条件に受け容れたい存在として、その目に映ります。
しかし、親の情緒が未成熟であった場合、自分を慕い抜く我が子の姿が、絶対服従の構えに見えてしまいます。
何をしても構わない存在に見えるのです。
親の情緒が成長の歩みを停めてしまったのは、親自身が情緒未成熟な親から絶対服従の無力な存在として見做され、心に深い傷を負う幼少期を過ごしたから、です。
人は自分を愛する程度までしか、他者を愛することが出来ません。
心に深い傷を負った親は、自分のことを、価値が無い、と思い込んでいます。
無価値な自分を愛することなど出来ません。
ということは、我が子を愛することも出来ません。
子供が生きづらさを抱えてしまう原因は子供には無く、親の心の傷にあります。
だから、心のこと、は全て、原因も責任も自分の心にありますが、
唯一の例外が、生きづらさを背負う原因と責任だけは、親の心の傷にある、ということなのです。
しかし、情緒未成熟な親の下に生まれついた子供は、あらゆる事の責任を親から追及される事になります。
情緒未成熟な親の目には、子供は愛おしい存在として映る事は無く、
絶対服従の、何をしても構わない存在に見えています。
親は心に深い傷を負っており、その傷が絶えず疼いています。
親はその傷の疼きを鎮める為に、目の前に差し出された絶対服従の我が子を使います。
自分の怒り、焦り、苛立ちなどのネガティブな感情の原因は子供にある、と解釈し、
子供を責め苛みます。
本当は自分の無価値感によって生じたネガティブな感情の責任を、絶対服従の我が子になすりつけます。
イチからジュウまで、情緒未成熟な親は自分が楽になる事しか考えられません。
その親も、親から絶対服従の存在として扱われた幼少期があります。
親が自分を扱った様に、今度は我が子を扱います。
そうやって、機能不全家庭は世代間で連鎖するのです。
「この人がいなくなったら私はひとりになってしまう。」
と思い込む人は、おそらくは、かつて親から絶対服従の存在に仕立て上げられた人です。
大切な恋人や友人が、自分から離れてしまう時に、その人が執らわれているのは、
私はひとりになってしまう、という恐怖です。
「私は」です。
離れていってしまう、相手、の事を思いやる余裕など無く、
自分の事しか考えられなくなっています。
その構えは、かつて幼かった自分を利用して、自らの心の傷の疼きから逃れた情緒未成熟な親と同じです。
相手の立ち場に立って見たなら、自分の事しか考えられない人と一緒に居ようとは思わない筈です。
「この人」がいなくなったら、「私」はひとり…、
という思いに執らわれた時、自分の意識のベクトルは、「この人」に向いているのか、「私」に向いているのか、を考えてみて欲しいのです。
「私」のことしか考えられないから、大切なその人は離れていくのです。
負の連鎖の最中に生まれついた人が、
相手を思いやる境地に至る事は簡単ではありませんが、
大切な人との別れは、大きな気づきのチャンスとも言えます。
他者を、思いやる、には、
自分という存在に対する安心感が必要です。
その安心感を手にする環境に育っていなかったと気がつく事が、
自分の情緒を育てるスタートラインです。
気がついたなら、
自分の情緒を育てることは、
いつからでも、何歳であっても、
出来るのです。
自分を尊重する分だけ、
人は他者を思いやります。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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