親を憎みましょう、と言っているのではありません。
機能不全家庭に於ける親子関係は、立ち場の強い親が、立ち場の弱い子供を支配する関係性である、といつもお話ししています。
そうお話しするのは、親を憎みましょう、という意味では勿論ありません。
ただ、親から支配されて今日まで生きた人は、親に従属する事が当たり前になっていますし、自分が親に従属している、という自覚をなかなか持てません。
生まれた時からずっと親の支配下にあったのですから、気がつかないのは無理も無いのです。
親もまた、機能不全家庭に生まれ育って、親から支配された人です。
気がつかないまま親になり、今度は子供を支配します。
幼い頃に身を置いた親子関係が、その人の人間関係のひな型になります。
親が子供を一人の人間として尊重する事が出来れば、子供の人間関係のひな型は尊重が基軸になり、
親が子供を尊重する事無く、支配したならば、子供の人間関係の基軸は、支配と従属になります。
心のこと、を考える時答えは、考えるその人の心の中にあります。
悩み、苦しみのきっかけは外にあっても、答えはその人の心にあります。
しかし唯一の例外が、幼少期です。
幼い頃の親子関係によって起きる、子供の心の問題だけは、その子供には責任も原因も一切無く、親の心にあります。
そしてその、幼少期の親子関係によってもたらされたものが、根を拡げ、生きづらさとなって、永くその人を苦しみに縛りつけます。
悩みや苦しみは、その人の心の中で起きる出来事なのだから、親に責任や原因を求めるのは、違うのではないか、と感じる方も居られる事と思います。
私も唯一の例外を除いては、全く同意見なのです。
たとえば次の様に主張する人が居たとします。
「あの人がこんな事を言った、あの人があんな事をした、それが許せない、それが私の苦しみだ。」
その主張に私が思うのは、他者はいつも、きっかけ、に過ぎず、答えはいつも自分の心の中にある、という事です。
原因も、責任も、成果も、自分のもの、だと思っています。
何故ならば、自分の人生を生きているから、です。
悩みや苦しみのきっかけとなる出来事は外にあっても、出来事をどう解釈してどう捉えるか、は、自分の心の中のこと、です。
つまり、自分がどう解釈して、どう捉えて、どう意味づけるか、が自分が見る世界を創造する、と思っています。
軽やかに生きることを考える時、
活き活きと生きることを考える時、
根幹は、自分が自分の見る世界を決めている事に気がつく、ということにある、と考えています。
しかし、唯一有る例外が、幼少期の親子関係に起因する生きづらさ、です。
生きづらさを抱えていない人が、より良き人生を歩む事を考える時と、
生きづらい人が生きづらさを手放す時とは、
分けて考える必要が、どうしても有るのです。
生きづらい人が生きづらさを抱えてしまった原因は、本人には無く、
親が抱える生きづらさを、そっくりその人が背負わされた事が原因です。
その人は、背負わされたという事に気が付きません。
親が支配し、子供が従属する親子関係に於いては、非は全部子供にある、という事になるのです。
その人は、自分が悪いから、生きづらくなった、と思い込み、自分で自分を責め苛んで生きます。
だから、
生きづらい人は先ず、自分には責任は一切無い、という事を腹の底から解かる必要があります。
だから、
自分には非は無くて、原因は親の心にある、という事を解かる為に、
真実を見つめようと、過去を辿ります。
それは、犯人探しでも、責任転嫁でも、逃避でも無く、真実を知る為です。
生きづらい人は、親から支配されて生きた為、全部自分が悪い、自分は無価値だ、と自分で自分を責め苛んで生きて来たのです。
全部思い込みである事を、先ずは腑に落とす必要があるのです。
親を憎みましょう、と言っているのでは決してありません。
真実を見つけたら、怒りも湧き上がります。
湧き上がった怒りは感じ尽くす事でしか消化する事は出来ません。
幼い頃は、支配される事が当たり前だったのですから、怒りは封印していました。
幼い頃の怒りは未消化のまま封印されて積み上がり、それは形を変えて生きづらさになりました。
今封印を解かれた怒りを再び見て見ぬふりをしては、消化する事は叶いません。
だから、しっかりと感じ尽くすのです。
自分の心の中で感じ尽くす事が出来たら、それが望ましい、とは思いますが、親と顔を合わせたり、言葉を交わす際に、どうしても怒りが零れてしまうのは致し方無い、と思います。
封印して来た怒りを感じ尽くすのですから、親子関係は刺々しいものになるかも知れませんが、
怒りは感じ尽くして消化する事が必要ですから、親子関係が変容する事も、やむ無しです。
ただ、述べた様に、犯人探しをして、断罪する事が目的ではありません。
自分の怒りを消化して、生きづらさを手放して、軽やかに人生を歩むことが目的の筈です。
怒りによって揺さぶられるでしょうし、親を憎む感情も湧き上がりますが、
それは通らなくてはならない場所です。
親に疑念を抱いても、親に怒りを覚えても、支配と従属の親子関係に育った人は、
自分の感情を閉じ込めて親に従属せざるを得ませんでした。
感情は不完全燃焼のススになり、心の奥に積み上がります。
感情の殆どが不完全燃焼のススなのですから、生きづらいその人は、自分の成り立ちが腑に落ちない事だらけです。
犯人探しでも、責任転嫁でも無く、
自分の成り立ちを腑に落とす為に、
真実を探ります。
決して、親を断罪する事が目的ではありません。
全てが腑に落ちて、生きづらさを手放した先の親子関係が、
どの様になるか、は別問題です。
生きづらさを手放す決断を下したならば、
先ずは、真実を、正面から、
しっかりと見据えます。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム