「自分」が無い人目線の成功
世の中は行動した者勝ちである。
今走り出せ、後は走りながら考えれば良い。
成功の女神に後ろ髪は無い。
打率を上げるよりも、打数を増やせ。
星の数ほどありますが、例に挙げた四つの文章は、どれも「行動」する事、チャンスを掴む事の大切さを語りかけている言葉です。
この物質世界に生きる限り、これらの言葉が言わんとしている事は、正しい様に思います。
行動する前に足を止めて熟考に熟考を重ねる事も間違いだと言っている訳では無いのですが、
自転車も静止からの漕ぎ出しが、ペダルは一番、重たい様に、
立ち止まって熟考を重ねてからの一歩目はなかなか踏ん切りがつかなくなるのは必然です。
世の成功者達は、おそらく他人の百倍も「打席」に立った人がほとんどだと思います。
百倍打席に立つ人は、ひとつひとつの行動の前、熟考に熟考を重ねていたら、打席に立つ回数を増やす事は叶わないと思います。
時に直感を信じ、時に好き嫌いを優先し、時にやりたいか、やりたくないか、を大きな判断基準にしている様に思います。
その判断を素早く下すには、心に「自分」が有り、自分が何を好きで、何が嫌いか、自分が何をやりたくて、何をしたくないのか、といった「判断基準」が無ければ難しいと思われます。
機能不全家庭に育ち、心に確固たる「自分」が無く、何が好きで、何が嫌いで、何をしたくて、何をやりたくないのか、等の感情を感じる事が苦手な人は、
行動に至る「初手」が苦手で、傾向としては、熟考型になりがちな気がします。
稀に、反動形成的な動機から、無闇矢鱈に判断、行動が早い場合もあります。
その稀なケースのほとんどは、幼い時から、親に「グズグズする事」を禁じられたのだと思います。
しかし、自分の中に判断基準を持たないまま、物事を素早く決定すると言う事は、言わば、当たるも八卦、運任せであると言えます。
世の中には、運任せでも当りクジを引く場合も有りますから、完全否定するつもりは有りませんが、失敗の確率は、当然高い筈です。
そして、機能不全家庭に育った人は、「失敗」を人並み以上に恐れる場合が多いのです。
その原因は、言わずもがなですが、親から否定的に扱われ、自分を「無価値」だと思い込んでいるので、
自分に「価値」が無いならば、「価値」は物事の成否が全てになってしまいます。
加えて、「失敗」を激しく責められた経験もあると思われます。
完璧主義者はこの様な事情から出来上がっている事が少なくありません。
対比の例として、愛情を注がれ、自分の存在や感情を親から肯定的に扱われた人は、
「失敗しても、自分には変わらず価値が有る。」
と感じているので、失敗を必要以上に恐れる事が無い為、
行動までの「初手」は、自分の直感や好き嫌い、したいか、したくないか、等を判断基準に決める事が出来、当然、早くなります。
何を持って「成功」とするかは、難しい話しですが、ここでは一般的に「成功」とされている、職業的な成功や、地位、名声、名誉、富などを得ることとすると、
機能不全家庭に育った人は、打席数が増やし難い条件が多数有り、
客観的に見て、難易度はやや高い様に思います。
しかし、一見全く関係性が無い様に見えますが、
自分と向き合い、自分はいったい何が好きで、何が嫌いなのか、何がしたくて、何をしたくないのかを知る事は、
確固たる「自分」を取り戻す一歩目であり、
いわれなき「無価値」の思い込みを取り払う一歩目であり、
感情を感じる一歩目なのです。
そこから始めるしか、苦手な、行動に繋げる初手の攻略はありませんし、
自分と向き合う中で、世に言う「成功」とは違った、「幸せ」や「豊かさ」、「望む人生のカタチ」が見えて来るかも知れません。
世に言う「成功」を望むにしろ、「幸せ」「豊かさ」「望む人生」を探すにしろ、出発点は、自分と向き合うことだと思います。
「自分」が無いまま生きる事が悪い訳ではありません。
「自分」が無いまま、更に言うと、自分が無いと言う事すら、気づかぬままに生きる人は沢山います。
自分と向き合う、という事が、大仰に感じられる方は、
先ず、日常に転がる自分の好き嫌いを発見する事から始めてみるのも良いかも知れません。
この花が好き、山が好き、海は嫌い、夏が好き、冬が嫌い、納豆はひきわりが好き、等など。
そうやって、感情をほぐしながら、自分は「自分」を取り戻したいのか、
それとも、「自分」が無いまま生きたいのか、考えてみるのも良いのではないか、と思います。
遠回りに感じられるかも知れません。
しかし、気づきは一瞬なのです。
NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム