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振り回す正義の後ろにある感情

少し前のことになりますが、近所の気持ちの良い川べりを散歩がてらに歩いていた時、

スゴい形相で、怒声を上げる男性に遭遇しました。

私は、ただ歩いているだけで、見ず知らずの他人から、とがめられる様な覚えは無かったので、

私の後ろを歩く誰かがいて、正面から歩いて来るその男性は、後ろの誰かに向けて怒鳴っているものと思い、

知らん顔をして、すれ違おうとした、その瞬間、
あろうことか、彼は私の腕を捕まえ、「逃げるのか!」とひときわ大声で怒鳴りました。

逃げる必要性も、怒鳴られる様な失礼を働いた覚えも、腕を強く捕まれなきゃならない理由も、思い当たらない私は、

「どうしましたか?」と尋ねました。

すると彼は、
「マスクっ!」と叫びました。

そうです彼は、私設マスク警察、だったのです。

タイホされました(笑)。


当時マスクの着用は基本的に、個人の判断に委ねられていて、
その前から既に、屋内着用、屋外は着用の義務無し、の基本線であることを説明しても、怒れる彼は、

感染ったらどうするつもりだ、
人の迷惑を考えろ、
の一点張りで、話し合いは要領を得ず、

彼は「逃げるな!」と私の背中に怒鳴り続けていましたが、
私はその場を立ち去りました。

ポケットにマスクは持っていましたが、着用しないまま立ち去ったのは、私の、イジワルしてやれ、という幼児性でしょうか?(笑)


彼の大義名分は、正義、です。

正義感で悪(私)をやっつける構図が彼の脳裏にはあります。

しかし、彼はどの場面でマスクを着用し、どのシチュエーションなら、外して良いのかも知らなければ、

マスクを着ければ感染せず、させず、外したらたちどころに感染を引き起こす、という彼の主張の根拠が何処にあるのかも、私には理解出来ず、

分かるのは、彼が激しい怒りに衝き動かされているのだろう、という事だけでした。

彼の正義感は甚だ怪しい、と思います。

彼は、悪を見つけて、正義感から断罪している、と思い込んでいますが、

彼の正義感の後ろには、未消化の憎しみと怒りが透けて見える様に思います。

正義感から世の中を良くする為に、という大義名分を掲げながら、
本当は、やり場の無い憎しみや怒りをぶつける相手、を探している人は、
世の中にも、私達のすぐ近くにも沢山います。


川べりのマスク警察に限ったことでは無く、

振り回す正義は、往々にして、未消化の憎しみ、である場合が多い、と感じています。

未消化の憎しみは、ぶつけ易い方向に鉄砲水の様に噴射されます。

ぶつけ易い方向とは、
自分より弱い相手だったり、
決まりに照らして明らかに決まりを破っている者、だったりします。

つまり、自分が強くて、相手が弱い場合、もしくは、
自分が正しくて、相手が間違っている場合、あるいは、その両方の場合、

憎しみは、正義に化けて、対象に向かってぶつけられます。


未消化の憎しみは、ぶつけられる相手に対する憎しみではありません。

憎んでいる対象は別にいて、その対象に憎しみをぶつける事が出来ないから、
ぶつけ易い相手を見つけて、ぶつけます。

つまり、ぶつけられる相手に非は無く、
言わば、八つ当たり、です。

それが家庭内で起きれば、虐待です。
虐待する親は、親自身が虐待された過去を持つことが、ほとんどです。

虐待する親は、かつて親から虐待され、本人が意識するか否かは別にして、
意識の一番奥底、意識と無意識の狭間では、親を憎んでいます。

しかし、それを意識することすら恐ろしい程、親を恐れています。
或いは、親への憎しみを意識することで、親子関係が破綻することを恐れています。

親を恐れているにしろ、親子関係の破綻を恐れているにしろ、親に対する憎しみを意識し、親に向かってぶつけることが出来ません。

ぶつけることが出来ない憎しみは、意識の一番深いところで燻り続けます。

燻り続けた、やり場の無い憎しみは、ぶつけ易い対象を探し、その対象へとぶつけられます。

家庭内での強者は親です。
弱者は幼い子供です。
親が心の奥で燻らせていた憎しみは、ぶつけ易い、弱い、幼い子供に向けられます。

本来向けるべき対象に、向けることが出来ない憎しみは、その憎しみとは無関係な対象に向かいます。

述べた様に、それが家庭内なら、虐待になり、

それが、学校や職場で起きればイジメです。

さらには、恋人へのDVも、通り魔事件も、無差別テロも、

やり場の無い憎しみの暴発です。

無差別テロも?と思われる人も多いかと想像します。

やり場の無い憎しみが、社会に向いた結果です。

幼少早期に小さな胸に抱いた憎しみは、決して親に向けることが出来ません。

理由さえ見つかれば、信じ難いことですが、親より社会がぶつけ易い対象なのです。


かつて小さな胸に憎しみを抱いた者は、
燻る憎しみをぶつける対象と、理由を探し歩く人生になりがち、です。


過ぎた正義感は偽装された憎しみである場合が少なくありません。

社会が、アイツが、あんな事が、
許せない!と、
正義を振り回し、対象を断罪しようと思ったとき、

その正義の後ろに、

隠れた感情が有りはしないか、

勇気を持って、

見つめることは、

怠ってはならない、

そう思っています。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム




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