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人生の主導権を他者に委ねていないか
他人から認められたい、良く思われたい、誉められたい、羨まれたい、
虚栄心と言われる、そんな思いを私達は、どうやら本質的に持っている様です。
虚栄心に呑まれ、振り回されることに注意を喚起する言葉は、仏教、哲学、心理学、ありとあらゆる心のことを説く教えには数限りなく有ります。
それ程、虚栄心は、呑まれると厄介なものなのでしょう。
世の中には、虚栄心を推進力にして成功を収める人も沢山います。
その虚栄心を推進力にして世に言う成功を収めた人が幸福かどうかは別の話しです。
思うに幸せは、あくまでも人其々の心の中にあり、
虚栄心は他人無しには発生しないし、満たされないもの、だからです。
虚栄心は私達の誰もが持っているもので、
時に推進力にもなりますが、
追い求め過ぎると幸福から離れてしまう気がします。
たとえば、写真を撮ることが好きだったとします。
いろんな所に出かけてはシャッターを切ります。
撮った写真を眺めて喜びを感じます。
時折、コンクールに応募したりもします。
入選して嬉しかった思い出もあります。
また応募してみようかと考えています。
この場合、あくまでも写真を撮ることが楽しくて、撮った写真を眺めることに喜びを感じる訳です。
コンクールに応募するのは、根底には世の人々に見て欲しいという思いがあります。
入選して嬉しかったのは、認められて嬉しかったということです。
私達に本質的に備わっている虚栄心と無関係な心の動きではありません。
しかし、その虚栄心は健康的な範疇のもので、決して振り回されてはいない訳です。
入選すれば嬉しいけれど、この人は入選しなくても、写真を撮ること自体が楽しいし、その写真を眺める時点で喜びを感じているのですから、
コンクールの結果に関わらず、この人は幸せな現実を創り出している、と言えます。
もしも、コンクールに入選した喜びが忘れられず、入選する為の傾向を徹底的に研究し、対策を綿密に練りに練って、好きなものよりも、入選するための被写体を選び、写真を撮って応募する様になったなら、
もしかすると、入選する確立は上がるのかも知れませんし、入選したなら嬉しさもひとしおなのかも知れません。
ただ、入選しなかった時は落胆する気持ちを味わうでしょう。
そして、ただ自分が撮った写真を喜びを持って眺めることは無くなるかも知れません。
どちらが良いとか悪いとか言うことは無いですが、
好きな写真を撮って、眺めて喜びを感じている時は、自分由来の幸せが有り、
コンクールの入選を至上命題に掲げた時は、幸せの主導権は他人に移ります。
コンクールの審査の結果が、入選なら幸せで、落選したら不幸な感覚を味わう訳です。
好きな写真を撮っている時は、「自分」を優先していて、
入選する写真を撮った時は、「他者」に委ねている、ということです。
自分を優先する時には、結果に左右されること無く、好きな写真を撮ることが、幸せです。
他者に委ねた時は、結果が全てになってしまいます。
なにも、自分が好きなことを世の中に向けて披露することに異を唱えているのではありません。
写真に限らず、ピアノもバレエもサッカーも野球も絵画も書道も、
好きなこと、得意なこと、努力したことを世の中に向けて発表したい、という欲求は、私達には元々備わっている欲求です。
それは健全なことなのです。
ただ、他人から認められたい、良く思われたい、誉められたい、羨まれたい、
という欲求に呑まれてしまっては、幸せからは離れてしまう様に思います。
生きる限り、人間関係は続きます。
人間関係は、好ましいもの、好ましくないもの、良好、険悪、入り乱れて様々、続きます。
他人の心は操縦することは出来ません。
唯一、自由に出来るのは自分自身の心のみです。
虚栄心に呑まれるということは、操縦不能の他人に、自分の心の有り様を委ねるということです。
認められないかも知れません、
良く思われないかも知れません、
誉められないかも知れません、
羨まれないかも知れません、
そんなコントロールの効かない他人に心の主導権を委ねては、幸せからは離れてしまいます。
幸せは、自由に出来る自分の心の中にあります。
ならば、
他者に委ねて、不自由を味わうよりも、
自分自身で幸せを創造し、
その世界を自由に泳ぐ方が、
ずっといい様に思います。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム