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「嘘」の代償

生きていれば、嘘をつくことはあるでしょう。

生れてこのかた、一度も嘘をついた事が無い人は、おそらくいないと思います。

また、何が何でも嘘は良くない、いつも正直であるべきだ、という信念に近い思いを持つ事は、やや不自然な気がします。

そういった場合、何かに縛られた状態の事が多い様に思います。

心の中に、自分を罰する何者かが居座っている事も少なく無いのではないでしょうか。

私達が愛そのものの存在として、この世に生を受けても、
愛情溢れる両親に育てられても、
愛そのものの存在のまま、この世を生きる事は難しく、

友達との関係性で傷つき、
自分の力の無さに傷つき、
勉強が苦手で傷つき、

時には、愛情溢れる両親でも、誤って子供を傷つけます。

この世界で経験を積む事と、傷つく事は、トレードオフの側面もあるのです。

そうやって傷つきながら、時には嘘をつく事も覚え、適度なズルさも許容し、「自分は天使では無い」けれどもそれでも価値があると思えたなら、その子は生きづらさに沈む事は無いのではないかと思います。


確かに生きる上で、なかなか清廉潔白である事は、難しいのですが、

機能不全家庭に育ったりすると、安心や安全と縁遠く、

すると、言い逃れたり、兄弟達に罪を負わせたりする事で身を守る必要があり、
その際に必要なツールが嘘です。

それから、受け入れ難い辛い境遇から逃避する時、事実と違う境遇を頭の中で作り上げ、その事実とは違う境遇を自分や周り(友達等)に信じ込ませる事も、一種の嘘とも言えます。

機能不全家庭には、安心、安全が無く、有るのは、危険、疑い、恐怖、等で、そこには嘘も生き抜くツールとして、身近に有ります。

身近にあれば手にも取り易く、そのツールを使って危険から逃れた経験があれば、

嘘をつく事が常態化する場合が少なく無いのです。


嘘をつかないという信念を持つ事も、
嘘が常態化する事も、
行き過ぎると、生きづらくなります。

その、さじ加減が上手なのは、
嘘をついても自分には価値が有ると思え、
嘘を使って危険から身を守る必要も無い、
健やかな家庭で育った人なのでしょう。


先にも触れましたが、幼い日に危険から身を守ってくれた「嘘」も、

人生のどこかで気づき、方向を変える事が出来れば良いのですが、

あまりにも常態化が強固だと、抜け出す事の難易度は高くなります。

そして、嘘はつけばつくほど心を傷つけます。

自分は欺いた、自分は偽物だ、本当の自分には価値が無い、という思いが心の中に積もります。

本人は自覚しないままに、少しづつ心が苦しくなって行くのです。

そして、嘘や虚構の世界にどっぷりはまり込んでしまうと、他人を欺くよりも、自分自身をも騙してしまうので、

自分と向き合う事が困難になっていきます。

そうなると、現実と触れる事よりも、現実を曲げた虚構の世界に身を置く事が多くなり、

現実に触れて今を生きる人達からは、奇異な印象を持たれ、なかなか接点が持てなくなります。

よって人間関係は同じく現実に触れる事が無い人ばかりと触れ合うこととなり、

内省する事も、気づく事からも離れてしまう事が少なくない様に思います。

どの様な人生を選ぶのも、その人の自由です。

そこに、善悪、正誤、優劣はありません。

しかしながら、

私は個人的には、

現実と触れる機会を少なくしてしまう事は、
選択肢を全て見ること無く、慣れ親しんだ世界を選んでいる様に思えてなりません。


出来得るならば、選ぶ世界は他にもあるという事を知って頂きたいと願います。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム





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