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素直に「ごめんなさい」 叱り方、接し方、愛し方
吊し上げられ感
お前は優しくない。
お前は誰に似たんだか、酷い子だ。
どれだけの回数言われたかわからないセリフです。
NAMIDAサポート協会カウンセラー
心の伴走者ノゾムです。
このセリフ、幼い日の私、ノゾムには、こたえたんです。
優しいとか、優しくないとか、
酷いとか、酷くないとか、って
もはやパーソナリティの問題であって、こうしたらいい、という答えが見つからず、吊し上げられ感がスゴかったんです。
幼いノゾムは、吊し上げには、耐えられず、納得いかないまま、「ごめんなさい。」と言う訳です。
すると、わかるんですね、しぶしぶ言っとるな、と。
そして、また、しぶしぶ なことを延々と責められるんですね。
母も幼い時、祖母から同じ様に責められて育ったんだと思います。
連鎖してるんです、世代間で。
避難経路封鎖
やってしまった行動について、戒められるのは仕方がないと思います。
例えば、狭いお店の中で、走ってはダメと予め言われていたのに、走って商品を陳列棚から落としてしまった。
「走っちゃダメって言ったでしょ、なにやってんの、あんたは。」
これは、その子の行動について、叱っています。
言いつけはまもらなきゃだったんだな、
狭いところでは、暴れちゃダメなんだな、
と、学びますし、素直な気持ちで「ごめんなさい。」も言えます。
ところが、
「お前が言う事聞かないのは、誰に似たんだか、酷い子だ。」
これは、その子の 行動への戒め、ではなく、存在を否定 しています。
誰に似るかは、その子には、どうすることも出来ないことです。
そして、 お前は酷い子 と存在を断罪しています。
行動は選べます。
この場合だと、言いつけを守るか、守らないか、狭いお店で走るか、走らないか、その子が選ぶ事が出来ます。
選ぶ自由がその子に有って、選択を誤った事がその子にもわかるから、素直に「ごめんなさい。」に辿り着く事が出来ます。
存在は選ぶ事が出来ません。
誰に似るか、はその子には選択のしようが無い事です。
そして、お前=酷い子 と決めつける事は、学びも反省も生まず、ただ反感を持ちます。
反感は存在を否定されたことへの怒りです。
幼い子供は、親から見捨てられる訳にはいかないので、なじる親をいさめる為に、自分の感情を曲げて、或いは、無かったことにして、「ごめんなさい。」に辿り着きます。
些細なことのようで、大切なことです。
健やかな感情を育むべき、幼い頃に、感情を曲げざるを得ない、捨てざるを得ない状況を作っては、決してならないのです。
よく幼児を叱る時は、
逃げ道を作ってあげなくてはならない、と言われます。
逃げ道を作ってあげる前に、
その子の存在を否定していないか、です。
その子が、感情を曲げる、捨てる、状況を作っていないか、です。
存在を否定される状況の場合は、逃げ道どころか、正当な避難経路が塞がっています。
素直に「ごめんなさい。」に辿り着けることは、その子の健やかな心を育む上で、とても大切なことと言えます。
根っこは同じ
些細なことのように、思われがちだと思いますが、健やかな感情を育まなければならない、やわらかい幼少期の心には、
感情を曲げる、
感情を捨てる、
と言うことは、重大なことです。
そうした時だけ、親から受け入れられるのですから、
その後の人間関係の中で、その子は、感情を曲げて我慢、感情を捨てて辛抱することが、他人から受け入れられる唯一の方法の様に思い込み、そのようなコミュニケーションをとってしまいます。
生きることが、我慢、生きることが、辛抱…生きづらいって、こう言う事ですよね。
表立って出てくるカタチは、我慢、辛抱している人ばかりでは無くて、逆に一切我慢出来ない、怒りに振り回されるパターンや、もはや、燃え尽きた様な、感情を持つことを放棄したようなカタチとか、色々ですが、
根っこは同じだったりします。
吊し上げられた子代表として、私、ノゾムの場合は、自分には価値が無い、という思いの無価値感です。
親から充分な愛情が貰えない、寂しさや、こんなに怒っている親から見捨てられるんじゃないか、という恐怖など、ネガティブな感情にまみれては、いるんですが、中心は、「酷い子」である自分には価値がない、と言う無価値感です。
いろんなパターンがあるにしても、ノゾムのパターンは、多くの人に当てはまる様な気がしてます。
ノゾムは、大人になってから、この辺の事がわかって、自分と向き合って、心の傷を探し、その傷にも向き合って、生きづらさから、やっと開放されたように思えてますが、
幼少期の心の傷は、傷つく時も痛みますし、その後の人生でも痛みます。
一人でも多くの人が、生きづらさを抱えることなく、人生を歩んで欲しいと願ってます。
それには、
子供さんが、
素直に「ごめんなさい。」に辿り着ける
叱り方、接し方、愛し方が、
とても大切だと思うんです。
NAMIDAサポート協会カウンセラー
心の伴走者ノゾム