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窮屈な生き方

無軌道な生き方をしましょう、と言うのではありません。

我が儘に生きる事が好ましい、とも思っていません。

ただ、あまりにも窮屈に生きて、その為に生きづらくなってしまう人は、とても多い、と思っています。

窮屈な生き方をする人は、自分の感情を大切にしない様な気がしています。

自分の感情に沿って困った事になったり、他人から嫌われたりする位なら、自分の感情に蓋をして、相手やその場に合わせる事を選びます。

或いは、自分の感情に気づきもしないで、相手よりも優れた存在、周囲から賞賛される存在などになろうとして、偽りの自分を、演じる、場合もあります。

自分を偽って、他人に合わせる事も、
自分を偽って、優れた存在を演じる事も、

自分の感情を蔑ろにする事に変わりはありません。

最初に偽って、他人に受け容れられたとしたなら、ずっと偽らないと受け容れてもらえない、という事になります。

偽って、優れた自分を誇示して、仮に賞賛されたなら、ずっと頑張って偽り続けなければならなくなります。

いづれにしても、自分の感情を抑え込んで、無理に合わせたり、演じ続ける生き方はとても窮屈ですし、

窮屈な思いをした割には、無理に合わせる人、演じる人は他人から見ると、不自然に映ります。

苦労の割に、受け容れられず、賞賛も得られず、
労多く実り少い生き方の様に思います。

勿論生きている限り、他人に合わせる事、演じる事、もあるでしょう。

たとえば、営業職なら、

営業会議の内容が不毛でも、退出したり、大あくびは出来ないですし、

大得意先の理不尽な要求を泣く泣く呑まなければならない場面だってあります。

ライバルや同僚に、ついつい見栄を張ったり、自分を大きく格好よく見せようとする事も、ある筈です。

この世に生きる限り、いつも100%周りに合わせず自分を通す、という事は不可能ですし、

本当の自分から離れた自分を演じてしまう事もあろうか、と思うのです。

人間関係の中で生きていれば、完全に合わせず、全く演じる事が無い人は、ほぼ居ないのではないか、と思っています。


では、自分の感情を抑え込んで窮屈に生きる人と、
時に感情を抑え込む局面があっても、軽やかな心持ちで生きる人の違いは何処に有るのでしょうか。

その違いは、心に、確かな【自分】という意識、が育っているか否か、だと思います。

心に【自分】が育っている人は、自分なりの尺度が有る、という事です。

ここは感情を抑えて、周りと足並みを揃えよう、

さっきは、ついつい見栄を張ってしまったな、次は気をつけよう、

等といった、ここまでは他者に合わせても良い、これは譲れない、というさじ加減を持てるのも、

自分を大きく見せる為に演じてしまった、と失敗を認識出来るのも、

心に【自分】が育っていて、自分なりの判断基準が有るから、です。

冒頭に、
無軌道に生きる、
我が儘な生き方、
という言葉を使いましたが、

実は【自分】という軸が無い時に無軌道な人生になります。

【自分】が無く、判断基準を持てないから、さじ加減が上手く出来ず、我が儘が目立ちます。

【自分】が無く、判断基準を持てないから、他者の判断基準に自分を合わせて、窮屈な生き方をします。

無軌道に生きる人、我が儘が前面に出てしまう人、他人に合わせて窮屈に生きる人、は、

一見すると、バラバラに見えるかも知れませんが、

皆、【自分】が育っておらず、自分の感情を蔑ろにしている人、です。

無軌道に生きる人、我が儘に生きる人は、好き勝手に生きている様に、他者の目には映るかも知れませんが、他人に合わせるばかりの窮屈な生き方をする人とは現れ方が違うだけで、

自分の感情を閉じ込めて、偽った自分になって他者の受け容れを獲得しようとしたり、他社の賞賛を求めたりするのですから、

根っこは同じであり、それは窮屈な生き方でしょう。


確かな【自分】という意識、は自然に湧き上がる感情をすくい上げ、感じ尽くす、主体、であり、人生の主役です。

窮屈に生きることに、飽き飽きしたのなら、

心に、確かな【自分】という意識、を育てることが必要だと思っています。

主役を抜きにしては、

軽やかに生きることも、

自分の人生を生きることも、

叶わないと思うのです。

軽やかに生きるには、

【自分】を持って、

自分なりの基準で測って、

歩む事が大切だと感じています。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム








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