その子の翼は「知能」ではなく「知識」でもなく「知恵」なんです
機能不全家庭に育った人は、湧き上がる自然な感情を徹底的に否定されます。
自分の感情を捨てて、親が望む感情表現をしたときだけ、受け入れられる環境なのです。
たとえば、悲しくて泣きじゃくりたくても、親が明るく笑うことを望んでいると察知すると、
自分の感情を放ったらかしにして、親が望む通りに、明るく笑って見せるのです。
生まれた時から、親の顔色を伺って、感情表現を決めることが当たり前だと、
その子は自分の感情がわからなくなります。
感情がとても鈍くなってしまうのです。
つまり「感じること」が苦手になってしまいます。
「感じること」が苦手なので、
その代替手段として「考える」こと一辺倒の人になります。
「考えること」は勿論、大切です。
しかし、それはあくまでも、「感じる」ことを蔑ろにすることでは無くて、
「感じる」ことが有った上での、「考える」こと、です。
ところが、生まれたときから、自分の感情を捨てることが当たり前になってしまった人は、
「感じる」ことが出来ないので、「考える」こと一辺倒になる訳です。
いわゆる、ハートで対話する、とか、マインドで通じ合うと表現されることが極端に苦手なのです。
「感じる」ことが出来る人が、
好きか嫌いか、で決める物事を得か損かで判断します。
「感じる」ことが出来る人なら、
プロセスに意味や満足を感じる場面で、
結果がすべてになります。
そして、その「考える」こと一辺倒の人が、親になったとき、
子供にも「考える」こと一辺倒の世界を押し付けてしまうのです。
この子は何が好きで、何が嫌いかということには、その親は興味が有りません。
たとえば、この子は活発で外で駆け回るのが大好きでも、
子供は幼児の頃から英語に親しんだ方が良い、という事を聞くと、英語を習わせます。
そこに子供の好きや嫌いは意味を持ちません。
役に立つか否か、つまり得か損か、です。
たとえば、その子が小学生になって、運動会のリレーの選手に選ばれ、嬉しくて毎日かけっこの練習をする姿も見ていたのに、
いざ本番で転んでしまった我が子を叱りつける。
そこには、この子が張り切った、この子が頑張って練習したプロセスは意味を持たず、
更には、転んで悔しかったこの子の気持ちも意味を持たず、
ただ失敗の経験と叱られた事実だけが、この子の心に残ります。
プロセスに意味は無く、結果がすべてです。
そして、「考える」こと一辺倒の人は、持って生まれた能力を偏重する特質が有る様に思います。
生まれ持った知能が優れているから、100点を取った、と解釈しがちです。
先に触れた様に、この子が一生懸命頑張った、というプロセスに意味を見出だせないのですから、
どうしても、その子が持って生まれた知能の優劣に原因を求めがちなのです。
本当はその子の頑張りだったり、その教科が好きという純粋な興味の賜物であることの方が多いと思いますが、
とにかく、持って生まれた能力を偏重します。
そこには、この親もまた、親からその様に育てられ、プロセスには目が行かない人になったのでしょうし、
更に言うなら、この親は子供の頃の親との関わりによって心に大きな傷を負っていて、
その傷は心の成長を阻み、
その結果、心に極めて幼い部分を残しています。
幼い心のまま親となり、子供が褒められるよりも、「こんなに賢い子を産んだ親」だと自分が褒められたいのです。
この親にはその自覚は無く、子供を応援しているつもりで、自分が称賛されることを望んでいます。
だから、子供の努力では無く、
自分が与えた能力を偏重します。
この子は、親から与えられた筈の優れた知能を活かせないのは自分が悪い、と思い込みます。
或いは、この子がこの環境下で、成績が良かった場合、
この子は自分の好き嫌いに関係なく、勉強し、ただ結果を求めます。
持って生まれた知能にプラスして、知識を詰め込みます。
有名大学を出て、社会で通用しない人の話しは、耳にしたことが有る人も多いのではないでしょうか。
持って生まれた知能が優れていることは、有利なアイテムを手にしている、とは言えるかも知れません。
知識は少ないよりも多い方が良いとも言えるでしょう。
優れた知能が有れば、
豊富な知識が備われば、
人生を幸せに歩めるのでしょうか。
私は人生を幸せに歩む為に必要なのは、
知恵だと思っています。
持って生まれた知能というコンピュータに、
知識というデータをインプットしただけでは、
知恵は生まれません。
知恵は、知能と知識に経験を加えた時に、はじめて生じるものです。
経験は、友達との交流や、部活動、日常を生きることから得るものです。
そこには、
ケンカをして腹を立てたり、
仲直りして嬉しかったり、
試合に負けて悔しかったり、
勝って喜んだり、
勝つための練習が苦しかったり、
恋愛をして舞い上がったり、
フラれて涙が出たり、
降りかかる出来事に自分の感情が載ったとき、
出来事は自分の経験になります。
そして、
持って生まれた知能や、取り込んだ知識に、経験を加えて、はじめて知恵になるのだと考えます。
冒頭で、
機能不全家庭に育った人は、湧き上がる自然な感情を徹底的に否定されます。
と述べました。
家庭は子供にとって、
社会という大空に飛び立つまでの、安心、安全なとまり木であって欲しいと思うのです。
子供にとって羽ばたく翼は知恵なのです。
子供の感情を否定することは、
翼から羽根をむしり取ることと同意なのです。
どうか、その子が力強く羽ばたくその日まで、
育んで、慈しんで、愛して欲しく思います。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム