心に傷を持つ母は逃げ場無く待ったナシの孤独の中
幼少期に親との関係性によって心に傷を負ってしまった人は、
総じて、子どもや後輩などの扱いが苦手な人が多いと思ってます。
世話をする、面倒を見る、といったことが不得手だし、強い抵抗感が有る様に思うのです。
実体験として、機能不全家庭に生まれ育った私もそうでした。
どうして世話をする、面倒を見るのが苦手なのかということは、
何十年も生きづらさに苦しんで、自分と向き合い、
ようやっと生きづらさを手放した感覚を得てから、分かった様な気がしています。
抱えた生きづらさが大きかった分だけ、沢山の気づきを迎えると思うのですが、
その中でも、世話をすることが嫌いな理由は、
意外だったし、ある意味衝撃でした。
私は、
世話をして欲しかったし、
面倒を見て欲しかったし、
もっと言えば、
守って欲しい、
注目して欲しい、
我儘を言いたい、
ということなのです。
自分が世話をして欲しいのですから、
子どもや後輩の面倒を見ることが嫌いな訳です。
幼い頃、自分の「して欲しいこと」を全部諦めなければならない環境でした。
諦めるだけでは無く、親の望むことを叶えてあげる立場に立たされていました。
親が望めば、
泣きたくても笑い、
怒りたくても平気な顔をし、
はしゃぎたくても大人しくします。
感情を抑え込みます。
その延長線上にある欲求も抑え込みます。
先に述べた、
世話をして欲しい、
面倒を見て欲しい、
守って欲しい、
注目して欲しい、
我儘を言いたい、
これらは、「幼児的欲求」です。
大人になったら叶えられることの無い欲求、
しかし、幼児なら当たり前に持っている欲求です。
思うに、
「幼児的欲求」は叶うか否かが問題では無く、
その欲求を素直に表現出来るか、出来ないかが重要なのだと思うのです。
自分だけに注目して欲しい時、叶わないと子どもは拗ねたり怒ったりします。
注目してあげたくても、子どもの「お母さん、見て!見て!」に応えてあげられない状況はいくらでも有ります。
叶わないことなど、よく有ることです。
叶ったか否か、では無く、
「お母さん、見て!」と言える母子の関係性なのかが重要です。
そして、
叶わなかった時、見てもらえなかったとき、
盛大に拗ねかえることが出来るか、
ぷーっと膨れっ面をして不満を表明することが許されているかが大切なのです。
私の育った家庭では、親に対して自分に注目するよう促すことは出来ませんでした。
「見て!」と素直に言うことは出来ない家庭でした。
親を煩わせてはならないから、です。
不満を表明すると、痛い目に合わされるので、ぷーっと膨れることも出来ません。
こうして、感情も欲求も抑え込んだときのみ許される、
つまり、親の欲求を満たす存在にならないと許されない、ということです。
本来、幼児は感情を受け入れられ、欲求を満たされて当然なのです。
そうすることで、幼児は自分への「安心感」を持つことになります。
しかし、この感情を受け入れられるべき、欲求を満たされるべき時期に、
否定、拒絶されるばかりか、親の感情を受け入れ、欲求を満たすことを強制されるのは、
親子の役割が逆転しています。
親が受け入れられる側になり、
子どもが受け入れる側に立たされ、
親が親、子どもが子どもの役割で無くなったとき、この家庭は正常に、健康的に機能しておらず、
よってこの家庭は機能不全家庭なのです。
その機能不全家庭に育った人は、散々親の感情を受け入れ、
親の欲求を満たし続ける幼少期を過ごした人です。
もう世話をするのは懲り懲りなのです。
幼少期の感情や欲求を無理やり抑え込んでも、
感情や欲求が自然に消えることはありません。
心の奥の奥に未消化のまま残ります。
これが、大人になって子どもや、後輩の世話をすることに苦手意識を持つ原因だと思います。
本当は、苦手とか不得手とか嫌いという次元では無くて、
心の奥底では、目の前の子どもや後輩が、羨ましく、妬ましく、憎らしいのです。
未消化の感情や欲求がうずくのです。
私は、このことに気がついたとき衝撃を受けました。
まさか、大人になった自分が、
世話をされたい、
面倒を見て欲しい、
守って欲しい、
といった思いに突き動かされている、などとは思いもしなかったからです。
思うんです。
私は男性ですので、その立ち位置に在りませんが、
心に傷を持つ母親は、常に幼い我が子と触れ合う訳で、
育児は母親にとって、
逃げ場は無く、待ったナシの舞台です。
否応なく世話をし、面倒を見て、守る立場に立つことになります。
心に傷を持つ母は内にどれだけの葛藤を抱えているのか、と思うと、
機能不全家庭に育った者だから、身につまされます。
しかし、
心に傷を持ちながらも、子育てに奮闘するお母さんは沢山います。
子どもに教えられるとか、子どもと共に成長する、などと言います。
きっとそうだと思うんです。
子どもがいてくれるからこそ、母親が気づきに導かれることは、少なくないと思います。
生きづらさを抱えて生きた者の実感として、幼い頃、既に心は傷だらけであっても、
ただの一度でも、優しく頭を撫でてくれる人に出逢えたなら、
ただの一度でも、優しい眼差しを落としてくれる人がいてくれたなら、
心の傷は随分少なくなったような気がします。
逆に考えると、仮に心の傷に振り回されて、幼い我が子を沢山傷つけたと悔やんでいるお母さんが居られるなら、
お子さんの傷は、これからお母さんが気づかれて、優しい眼差しを落としてあげることが出来たなら、
いつでも癒やしてあげられると確信してます。
お子さんに上手に愛を注げていない、とご自身を責めることは、お子さんを傷つけることと同意です。
今は上手に愛を注ぐことが出来なくても、かつて全てを抑え込んだ幼少期を思えば、無理からぬ事です。
それにも拘わらず、母となり、よくやっています。
そのことを過小評価せず、
ご自分を褒めて下さい。
ご自分を癒やして、
ご自分を受け入れて欲しく思います。
ご自分を受け入れることが、
お子さんを愛することです。
ご自分の傷が癒えたとき、
お子さんの傷も消えると確信しています。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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