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「第三種」という生き方

この世には、様々な「区別」があります。

国籍、人種、性別、年齢、職業、居住地、等など、挙げればキリがありません。

上記のその人の事実、史実に基づいた区別とは別に、

人を三つに分ける事柄があります。

外から見ても、戸籍謄本を見ても、わからないのですが、

でも、人は三種類に別れています。


一種類目は、

愛情溢れる健やかな家庭に育った人。
感情や存在を否定されず伸びやかに育った人。
自分には「価値が有る」という感覚が揺るぎない人、つまり「有価値」を感じる人。

二種類目は、

機能不全家庭に育った「生きづらさ」を抱える人。
感情や存在を常に否定され続けて育った人。
自分には「価値が無い」という強固な思い込みを持つ人、「無価値」感に苛まれる人。


人や心を語る時、安易な「区別」は避けるべき、と思っていますが、
無価値に苛まれる人が、「生きづらさ」を手放したいと願うとき、この「区別」を、どうしても知る必要があるのでお話しさせて頂いております。


そして
三種類目は、
二種類目の「生きづらさ」を抱える人が、その「生きづらさ」に気づき、自分と向き合い、見たくない心の傷をしっかりと見据え、その傷を取り払い、「生きづらさ」から解放された姿です。


一種目の「有価値」を感じる人は、
二種目の「無価値」感に苛まれる人の事は、理屈では理解出来ますが、「無価値」感に苛まれた事も無ければ、「無価値」を感じずには居れない生育環境を体験した事も無いので、深い理解には仲々至らず、「無価値」感に苛まれる人の「生きづらさ」についても、深い理解には届かない事が多いでしょう。

二種目の「無価値」感に苛まれる人は、逆に「有価値」を感じた事が無く、「有価値」を感じるに至った生育環境を知る筈も無く、「有価値」を感じる人の事がわかりません。

しかし、「第三種」は、かつて過酷な幼少期を生き抜き、その結果「生きづらさ」を抱える事となり、気づき、向き合い、「生きづらさ」を解放し、自分が「有価値」であった事に気づいた人です。

かつての「無価値」感に苛まれる自分と、今、「有価値」である事に気づいた自分の、どちらの気持ちも理解出来る存在です。


解放したからと言って、愛情いっぱいに育てられた、「有価値」を感じる人と同じになる訳ではありません。

解放して尚、心の傷の残骸は残るでしょう。
しかし、「第三種」の人はかつての様に、ネガティブな感情に翻弄される事はありません。
ネガティブ感情をコントロール出来ます。

時に、起こる「出来事」に、心の傷の残骸が反応し、ヒリヒリと痛む事があっても、コントロール出来れば、呑み込まれる事は無く、望む人生を歩めます。

そして、何より、先にも触れました様に「第三種」の人は、
有価値を感じる人の気持ちも、無価値感に苛まれる人の気持ちも、深く理解する事が出来ます。

私は、老人を馬鹿にする若者よりも、年齢の違いを超えて老人を理解する若者に「豊かさ」を感じます。

逆に、若者を「なってない。」と決めつける老人よりも若者を理解しようと歩み寄る老人に「豊かさ」を感じます。

コンビニやタクシーで威張り散らす客よりも、感謝の気持ちを自然に持てる人に「豊かさ」を感じます。

「立場」に呑み込まれて、理解しよう、歩み寄ろう、感謝したい、という気持ちを忘れる人も多いですが、

老人よりも若者が偉い訳でもなく、若者より老人が偉い訳でもない。
コンビニでもタクシーでも、客が偉い訳ではありません。

立場の違う人に深い理解を持つことは、心豊かな在り方だと思うのです。

つまり、愛されて育った「有価値」を感じる人にも、
過酷な幼少期を生き抜いた「無価値」感に苛まれる人にも、

どちらの立場の人の心にも、深い理解を持つ事が出来る「生きづらさを手放した第三種」は、豊かな人間性を獲得する引換券を手にした人なのではないか、と思うのです。

たまに心の傷がヒリヒリと痛みを持っても、即座にコントロールして、

せっかく手にした引換券を行使して、豊かな世界を生きてみたい、

そう思うのです。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム

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