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親の心が凪いだ海ならば
親の心の有り様は、言葉を介さない、非言語的なメッセージとして、子供に送られ続けます。
つまり、親の心が凪いだ海の様相で子供の眼前に広がるだけで、その子は安心する事が出来ます。
言葉を介さずとも、それだけでその子は、安心のメッセージを受け取ります。
親が心に嵐を抱えていたならば、子供は其処に、呑み込まれそうな高波を見ます。
吹き飛ばされてしまいそうな強風を感じます。
言葉を介さずとも、その子は不安と危険のメッセージを親から受け取ります。
過去の記事の中で幾度も、子供の心の問題は、親の心に繋がっている、とお話ししました。
子供は親のメッセージを映します。
親の心の有り様を映すのです。
凪いだ海を眺めて育った子は、安心感に包まれ、健やかな心を持つ子に育ち、
嵐に怯えて育った子は、不安な子になります。
世の中に育児書は星の数程あります。
実際には不可能ですが仮に、不安定な心を持つ親が、この世にある全ての育児書を読破して子育てをするよりも、
育児書は一冊も読んだ事が無くても、凪いだ海の様な穏やかな心を持つ親の子供は、軽やかに人生を歩むと思うのです。
何故なら子供は親から、あたたかさや、思いやりや、愛を、「感じ取る」からです。
「感じ取る」ことは、思考の仕事ではありません、感情の仕事です。
知識として得た、子育てのテクニックはきっと正しいでしょう。
「一回叱ったら倍褒めましょう。」
よいと思います。
「母親が叱ったら父親が逃げ場になってあげましょう。」
もっともな事です。
よいですし、もっともです。
でも、そういった事では無いのです。
子育てのテクニックが正しいか否かの前に、
子供にどんな景色を見せているのか、が大切です。
親自身の心が凪いでいるのか否か、が大切なのだと思うのです。
正しい子育てのテクニックを知識としてインプットしても、
一回叱ったら倍褒める事を、嵐の中でしてみても意味は無く、
嵐の中で、母親が叱ったから父親が逃げ場になって見せても、何にもならないのです。
子育ては、親の心が穏やかに凪いでいる事が何よりも大切だと思っています。
幼少期に於ける幼い子供と親、とりわけ母親との関係性は、特別なもの、である事を忘れてはならない、と思っています。
幼少期はその子にとって、生涯唯一の親からの、無条件の受け容れ、を享受する季節です。
その子の、人としての基礎は、この特別な季節に築かれます。
その子は、出来立てで柔らかで真っ白な心を全面的に親に委ねます。
親が無条件に受け容れる事で、その子は、安心感を得て、
安心感に抱かれて、自分はただ存在するだけで価値が有る、という感覚を芽生えさせ、
あたたかな母子の蜜月を過ごす中で、自分には価値が有る、という感覚を育てます。
この、自分には価値が有る、という感覚こそが、その子がその子である由縁であり、その子がその子として生きる意味でさえある、と言えます。
その子の心の、核、なのです。
そんなに大切なものを、母子一体となって育む季節は、唯一であり、特別なのです。
親が、その子の幼少期が大切で、特別で、尊い季節であるという事を「感じ取る」ことが出来ない場合に、
親は、思考による「理解」で子供に接します。
一回叱ったら倍褒める方程式で子育てをします。
その親は自分は、感情が動いて、感じ取っている、と思っていますが、思考によって、理解、しているのです。
一回叱ったら倍褒めるという、1対2の配分や割合や方程式と、
その子が愛おしくて、かけがえが無くて、いじらしくて、褒めずにはいられないから褒める、という事の違いを、思考による理解は出来ても、感情で感じ取ることが出来ません。
方程式は、解、を求める為に、当てはめるものである限り、
子育てに於いての、解、は親の考える、結果、であり、
其処に導く方程式はコントロールであり、親の意図であり、
ありのままのその子を受け容れることとは真逆である、ということを、その親は感じ取ることができません。
大人になれば、意図やコントロールが全く介入しない他者との関わりは、殆どありません。
友人であろうと、親類であろうと、ご近所付き合いであろうと、職場の人間関係であろうと、
意図やコントロールは介入します。
更には、子供が幼少期を過ぎたなら、母子の間にも意図やコントロールは介入します。
だから、幼少期に於ける純度100%に限りなく近い関係性は、唯一、特別な尊い季節なのです。
友人、親類、ご近所、職場などの他の人間関係とは、異質なものであり、同列に並べる事は、本来、出来ないのです。
その親が、感じ取ることの代わりに、思考することに偏ったのは、
その親も幼少期に、意図とコントロールを思いやりだと思い込む親子関係の中で育ったから、です。
意図とコントロールの親子関係は、親から子、子から孫へと受け継がれますが、
親でもいい、子でも孫でもいい、
気が付いたなら、リレーは終わりを告げます。
其処にあるのは、
尊重と思いやりなのか、
それとも、
意図とコントロールなのか、
自分の感情は滑らかに動いて、
感じ取っているのか、
それとも、
思考による理解に偏っているのか、
其の事に気がつく、だけ、なのです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム