生きづらさを創り出す親子関係に欠けたもの
機能不全家庭に於ける親子関係は、
心理的には逆転しています。
確かに物理的には、
親が子を養育しています。
ご飯を与えるのも、服を買い与えるのも親ですし、住まう家も親が建てたか買ったか、賃料を親が支払っているか、です。
機能不全家庭だからといって、物理的には、健やかな家庭と何ら変わるところはありません。
だから、他所から見ると、機能不全家庭は、健やかな家庭と見分けがつきません。
むしろ、機能不全家庭の親は、総じて世間体を過剰に気にしますから、外から見ると、ちゃんとした、親子に見える場合が多いと思います。
機能不全家庭は、親が抱える、自分は無価値な存在だ、という思い込みから目を逸らすことが目的の集まりです。
家族が羽を休める安らぎの場でも、あたたかな団欒の場所でも無く、
ただ親が無価値感から逃避する為にだけ在る、と言っても過言ではありません。
この事は、機能不全家庭に生まれ育ち、生きづらい人になり、その生きづらさに気がつき、そして手放した人にしか、分からないかも知れません。
健やかな家庭で育った人には、親が子供を貶める家庭がある、という事も、
ましてや、子供を貶める事に、喜び、を感じる親がいる、という事も、信じ難いと思いますし、
生きづらさの真っ只中に在る人は、生まれも育ちも機能不全家庭で、その環境、その親子関係しか知りませんから、
自分が生まれ育った場所を、客観視する事はありません。
機能不全家庭や、親子の役割り逆転といったことの真実を見据える事が出来るのは、
生きづらさに苦しんで、
生きづらさに気がついて、
生きづらさを手放した人、
だけなのかも知れません。
機能不全家庭という言葉は、広く知られる様になりました。
ネットで情報を集める事も容易です。
しかし、検索して得た情報は、言葉の理解に留まりますし、
実体験の無い理解は、どれだけ考察を重ねても、推測の域を出ません。
機能不全家庭と、健やかな家庭は、外からは見分ける事が難しいですが、
その在り方は、全く異なります。
ですから、
少しだけ機能不全家庭寄り、とか、機能不全家庭気味、といったことはあり得ないのです。
見分けはつかなくても、真逆、です。
何故なら、健やかな家庭の核となるものが、機能不全家庭には欠けているからです。
健やかな家庭の親は、幼い頃、肯定的な親から、無条件に受け容れられる環境で育ちました。
幼少期に無条件に受け容れられる日々を送ることで、その子は、自分は存在するだけで受け容れられる価値がある、という感覚を育てます。
無条件な受け容れとは、その子が存在するだけで、尊重、され、
その子が言葉を発しなくとも、思いやって、もらえるということです。
機能不全家庭の親は、幼少期、否定的な親から、否定され、拒絶されました。
受け容れられるのは、自分の感情を諦めて、親の感情や要求を優先した時だけ、
つまり条件付きの、取り引きの様な受け容れです。
条件を満たせば受け容れられ、さもなくば否定され、拒絶され、責められます。
そうやって育つうちに、自分には価値が無い、という信念にも似た強固な思い込みを、その子は持ってしまいます。
無条件な受け入れは、突き詰めれば、愛、だと思っています。
愛、は分解してみたら、その主成分は、尊重、と、思いやり、だと思うのです。
健やかな家庭に有って、機能不全家庭に欠けているものは、愛、です。
機能不全家庭の親は、尊重されたことがありません。
その親は、思いやり、を知りません。
受け入れには条件が付く、と思っています。
生きづらさを抱える原因は、その殆どが幼少期にあります。
親子関係にあります。
もっと言うなら、
親の心、にあります。
機能不全家庭に生まれた子供は、
愛、を知らない子です。
親もまた、尊重されず、思いやってもらうことも無く育ち、
愛し方を知りません。
健やかな家庭には、愛、があるから、子供にとって家庭は、自分の翼で飛び立つまでの、安心、安全の巣、たり得ます。
機能不全家庭には、愛し方が分からない親がいて、愛されたことの無い子がいます。
では、愛されたことの無い子は、
生涯、愛には届かないのでしょうか。
先に触れた様に、
生きづらさに苦しんで、
生きづらさに気がついて、
生きづらさを手放した、その人は、
生きづらさを知り、
愛を知る人になり得ます。
苦しみは長く続いても、
望むなら、
深い人間性に届きます。
過酷な過去があるからこそ、
手放したなら、
より鮮やかな景色を目にします。
軽やかに、軽やかに、
歩いて欲しく思います。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?