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八方美人の憂鬱

諍い(いさかい)が起きた時、
又は諍いが起こりそうな時、

平和的な解決策を模索することは、大切だと思っています。

人の感じ方、考え方は十人十色であり、
その感じ方、考え方が違う者同士が関わり合えば、時に主張は食い違い、意見がぶつかり合うのは必然です。

そんな時、不必要な波風を立てる事無く、丸く収めようとする事は、必要だと思います。

但しそれは、自分の主義主張を捨てての平和、では無く、
異なる主義主張を持ちながら、互いに歩み寄ったり、互いの主義主張を擦り合せて、落とし所を探す、という事だと思うのです。

世の中は、簡単では無い事も起こります。

例えば、営業の商談で、大口の得意先の理不尽な条件をどうしても呑まなくてはならない、といった事は、生きる上では幾らも起こります。

自分の主義主張は殆ど通らない場面はあります。

そんな時は、自分の主義主張を何故曲げるのか、という事を、
自分の中で明確にしておく必要があります。

家族を路頭に迷わせる訳にはいかないから、ここは涙を呑んで、自分の主張を引っ込める、という、納得、が必要だと考えます。

自分の主張を曲げてでも、守りたいものが有る、という事を明確にすることが、納得する、という事です。

もしも、納得すること無く、自分の主張を捨てるなら、それは自分の主義主張を軽んじている、
更に言うなら、自分の価値を安く見積もっている、という事に他なりません。

自分には価値が有る、という感覚で世の中を見るか、
自分は無価値だ、という感覚を持って、世の中を眺めるか、は、

幸せな人生か否かを分ける、とすら思います。


機能不全家庭に育った人は、生まれた時から、自分の感情を捨てて、親の感情を優先する環境、に育った人です。

そこは主義主張など持ってはならない環境です。

家庭に於いては、無力な幼い子供は弱者です。
親の力は絶大です。

その親が、子供を尊重したり、思いやったりする能力を欠いていた場合、

子供に自分の感情、要求、主義主張を突きつけます。

家庭内のパワーバランスは、圧倒的に親優位ですから、

幼い子供は、突きつけられた段階で、感情を捨てることを余儀なくされます。
要求を呑み込みます。
主義主張など持てる訳がありません。

子供は、感情、要求、主義主張を全て放棄して、親を優先した時だけ受け容れられます。

そうやって幼少期を過ごした人は、感情を見失い、要求や、主義主張は、極めて頼りないものになります。

自分に価値を感じられる筈も無く、無価値感に苛まれます。

つまり、自分で自分の価値を低く低く見積もってしまいます。

するとやがて社会に出ても、自分の感情すら見失っているその人は、
自分の薄っすらとした要求や、主義主張に価値を感じません。

自分で自分を低く見積もっているのですから、自分の要求や主義主張など、取るに足らないものに感じられ、

そんな取るに足らないものを守るよりも、幼い日、親に全てを譲った様に、今度は他者に、さっさと譲って、この場を丸く収めた方が楽だ、と無意識に思ってしまいます。

幼い日の、子が親に全てを譲る関係性は、支配と迎合の関係性です。

親が支配し、子が迎合します。

その関係性しか知らずに育ったのですから、その人のコミュニケーションの方法は、支配と迎合の図式になってしまいます。

その方法しか知らなければ、自然と慣れ親しんだコミュニケーションの方法を取るのは必然ですが、

自分の要求や主義主張を簡単に捨てて、相手に譲り、相手を優先する在り方は、

自分を犠牲にして、相手に取り入る、という在り方です。

それが、迎合、です。

迎合する対象が一人では無く、あっちにも、こっちにも、となると、八方美人の状態です。

無意識に皆に媚びて、皆から好かれようとしています。

どれだけ譲っても、皆から好かれるということは考え辛いので、

八方美人は労多く、実り少ない、苦しい生き方だと思っています。

そればかりか、あっちにも、こっちにもいい顔をする信用出来ない人、というレッテルを貼られて、孤立しがちなハードな生き方です。

本当は、あっちにもこっちにもいい顔をする八方美人な人は、

その生き方しか知らないだけ、です。

徹底的に無力な幼い子供は、親に愛する能力が欠けていればいる程、親に取り入らなければ生きられなかったのです。

しかも、八方美人な人は、自分が支配と迎合の世界に生きている自覚がありません。

「あなたは、あっちにもこっちにもイイ顔するのね」と、面と向かって指摘されても、

なんだか指摘した人がイジワルな人に思えます。


決めつけは良くないですが、

私は、幸せな八方美人と出会った事がありません。

元々、万人に好かれる事は、あり得ないと思っています。

万人に好かれようとする程に、人は離れて行く様に思います。

そして譲れば譲る程に、低く見積もった自分の価値に確信を持ってしまいます。

その環境に育った人が、気がつくことは、簡単ではありませんが、

人間関係に恵まれない、と感じるならば、

自分の育った環境が、

支配と迎合に彩られた世界では無かったか、

一度立ち止まって考えることは、

決して無駄では無い、と思っています。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム




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