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親を変えたい、親を救いたい、親に謝って欲しい

生きづらさを手放す為に自分と向き合う最中、

親を変えたい、と思う人は少なくないと感じています。

自分と向き合う中で、自分に対する理解が進み、親との関係性についても、様々な事が見えて来ます。

その時、親を変えたい、という願いが生まれます。

あたたかな親子関係だと信じて生きて来たけれども、何故だかずっと苦しくて、

その苦しさが、生きづらさ、であると気が付いて、

苦しさから脱する為に、自分と向き合い始めて、

自分と向き合うと、あたたかいと信じていた親子関係の歪みが見えて来て、

その親子関係こそが、自分が抱える生きづらさの原因であったと気が付きます。

その時です。

その時、親を変えたい、という強い思いが湧いて来ます。

生きづらさを手放す人の誰もが通る場所です。

親自身も生きづらさを抱えていたから、自分を利用して、親自身の生きづらさから目を背けたのであり、

それは、親にとっては、そうとしか出来なかった、だから、今、自分と向き合い始めて、真実が見えて来た自分が、

親を救いたい、
生きづらさから、抜け出す方向に導きたい、

そう願います。

或いは、今まで親を信じて生きて来たが、自分と向き合い始めて、親は自分を利用して、自分を犠牲にして生きて来たという事が分かった、

騙した親を許せない、せめて、自分に詫びて欲しい、
謝って欲しい、

そう思います。


親を救いたい、という願いと、自分に詫びて欲しい、という思いの狭間で揺れに揺れます。

生きづらさを手放す人で、この思いが少しも過ぎらない人は、ほぼ居ないのではないか、と思います。


しかし、親を救いたい、導きたい、という思いも、
親に詫びて欲しい、謝って欲しい、という思いも、

親を変えたい、という願望です。


私達は、起きる出来事や、他人の心を変える事は出来ません。

唯一変える事が出来るのは、自分の心、だけです。

だから、生きづらさを手放す時、自分と向き合います。

自分の心をとことん見つめます。

生きづらさの原因は、確かに親子関係にある事が殆どです。

しかし、原因は其処にあっても、向き合うのは自分の心です。

生きづらい人は、自分と向き合う事が上手ではありません。

何故なら、生きづらい人は、心に、確かな【自分】という意識が育っていないから、です。

だから、過去を辿り、生きづらさを抱えるに至った経緯を腑に落とす事で、

今まで自分を責めに責めて生きて来たけれど、原因は過去の出来事に有り、自分は、少しも悪く無い、むしろ今日まで生き抜いた事は、誇らしい事だ、

と自分の価値を正しく再評価する事で、自分という存在に対する安心感を呼び覚まします。

自分という存在に対する安心感を持つ事で、心の中の【自分】は一気に育ちます。

【自分】が育てば、自分と向き合うことは難しい事では無くなります。


つまり、自分と向き合う為に過去を辿るのであって、決して、親を導く為でも、親に詫びさせる為でも無いのです。

先に触れた様に、私達が変える事が出来るのは、自分の心だけです。

しかも、覚悟を持って、自分と向き合う者だけが、自分を受け容れる事が出来、

自分を受け容れる先に、変化が訪れます。

親は、自分と向き合おうとも、自分を受け容れようとも、ましてや変わろうとも思っていないのですから、

自分と向き合い始めて、自分が見えて来て、親子関係の真実を知るに至ったその人が、幾ら強く望んでも、

自分と向き合わない親を変える事は出来ません。


そして、親を救いたい、親に謝って欲しい、と思うということは、

現時点では、自分と向き合う事の入口に立った状態であり、

自分と親との心理的な境界がまだ曖昧な状態にある、ということなのです。


心の中の、確かな【自分】という意識、の外郭線が、
自分と他人の感情を分ける、心理的境界線、です。

自分と向き合い、心に【自分】が育てば、親と自分の心理的境界もはっきりとして来ます。


親を救いたい、
親に詫びて欲しい、
親を変えたい、という思いは、生きづらさを手放す人は、皆、持つ思いです。

揺れに揺れます。


生きづらさを手放す道に置いてある、高い障壁と言えるかも知れません。

皆、揺れながら、越える事で、

心の中に、確かな【自分】という意識、を一気に育てます。


生きづらさを手放す人は、必ず通る場所なのですから、

方向は合っています。

揺れても構わないのです。

生きづらさを抱えて生き抜いた、

その人なら、高くても、

必ず超えられる障壁です。

恐れず進んで欲しく思います。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム



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