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母は私を守ってくれた
「父は呑んだくれては暴力を振るいましたが、母はいつも私を庇ってくれました。」
「私は今でも父が大嫌いですが、母の事は人として尊敬しています。」
「母が居なかったら、私は生きていない。」
暴力を振るったか否かは別にしても、父は悪いが、母は良い、という事を話す生きづらい人は、とても多いのです。
冷水をかけるつもりは無い事をお断りした上でお話しさせて頂くならば、
その人が言う様な、極悪人と聖母の組み合わせを、私は映画やドラマ以外であまり見た事が無い様に思うのです。
酒を呑んで暴れる事は、子供に破壊的なメッセージを送る事になるのは明白です。
しかし、人の心は複雑で、目に見える分かり易い事が全てでは無い訳です。
ましてや、父が悪で、母は善だと話すその人は、母親が善であるにも関わらず、生きづらくなってしまった、のです。
生きづらいその人が育った環境は、九分九厘、機能不全家庭です。
機能不全家庭は父親一人で出来上がる訳ではありません。
家族の一人ひとりが、各々に父の役目を果たす事が出来ず、母の役目を果たす事が出来ず、
それによって子供が子供らしく居られないのが、機能不全家庭です。
機能不全家庭には、真実を隠す為の嘘が必ずあります。
真実を隠さなければならない理由は、
本当はあたたかくなんか無いけれども、それを認めたら家庭は壊れてしまうから、です。
本当は其処に愛は無いけれども、それを認めたら、夫婦は夫婦で居られないからです。
本当は、子供の事を思いやる心は持ち合わせていないけれども、それを認めたら親子関係は破綻するからです。
それを誤魔化す為に嘘を真実だと言い張る事で、機能不全家庭は成り立っています。
嘘はどこまで行っても嘘なので、その家庭では、いつも嘘の綻びから真実が覗けそうになっています。
綻びが露わになりそうな時、犠牲になるのは、いつも子供です。
子供は知らなくていい!
子供のクセに!
生意気を言うな!
他所で言ったら承知しないよ!
と、子供は綻びを覗く事を禁じられます。
お前の為を思って、
お前はお利口だからしないよね、
親子じゃないか、
優しい口調で、綻びなんか無い事にされてしまいます。
暴力で、強い口調で、優しい声色で、ありとあらゆる方法で、親は子供を、押さえつけ、騙し、コントロールします。
人の心は複雑です。
呑んだくれの父親が、実は母親を引き立てる小道具である場合は実に多い、と感じています。
父親が悪役になる事で、母親は悪から身を挺して子供を守る立派な母親の位置に収まります。
父親がダメであればある程、母親は聖母に近づきます。
子供は、母親は優しいと思い、
近所の人、親類の人は、
「あんなご主人を見捨てず我慢してよくやっている。」と噂します。
ご主人を立ち直らせるよりも、駄目なご主人を支え、子供を守るというポジションに収まる事が、存在意義になってしまう、可哀想で優しい聖母、は少なく無いのです。
「そんな事は無い!母は私を庇って父から蹴られました!」
「私を連れて裸足で家を飛び出した事もあったんです!」
うがった見方をすれば、
成人男性が怒りに任せて、女性を蹴ったなら大怪我をしますし、それ以上の悲劇すら考えられます。
母親は、本気では蹴られないという確信があったのかも知れません。
裸足で家を飛び出したのは本当でも、その行動は、見つかって連れ戻される前提に立ったものだったかも知れません。
父親は母親の設定通りの父親を演じ、母親は一番存在意義を感じられるポジションに収まり、
子供は、親のシナリオの中で生きるしか無い弱者であり、なんの責任も無いですが、
そんな両親の嘘に気がつく事は、自分は親から愛されていない、という真実に気がつく事であり、
それは、幼い子供には耐えられないので、家庭の嘘の綻びから覗く真実は、無い、という事に、無意識にしてしまっている場合もあります。
その意味では、機能不全家庭は、親が自分の生きづらさ、無価値感、から目を逸らす為にある、と言えますが、
完全な被害者であるにも関わらず、子供も無意識に引っ張られて、
親が描いたシナリオの中で、生まれた時から演じ続けているのです。
こんなお話しをするのは、意地悪な気持ちがあっての事では勿論ありません。
私としては、ひねくれたものの見方をしている訳でも無い、と思っています。
ただ、父親が悪で、母親は飛び抜けた善人だ、と主張する生きづらい人は実に多く、
その信念にも似た固い思い込みが、生きづらさを手放す事を困難にする場合が多々あるのです。
幼い子供にとっては、認め難く、耐え難い真実であるが故に、固く目を閉じ真実を見ないまま生きたのですが、
その人は生き抜き、生きづらさに自分の力で気がついたのです。
もう無力な幼な子ではありません。
生き抜き、気付いたその人は、
勇気有る人です。
手放すのに必要なのは、
真実を真実と認め、
生き抜いた道のりを腑に落とすこと、なのです。
生き抜いた、勇気有るその人なら、
真実を見つめることは出来ます。
望む人生を生きられます。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム