人は変わらない?
「結局、人は根っこの部分って変わらないんだよ」
以前、友人が言った台詞です。
友人が言う、根っこ、が何処を指していて、それが私が思う、根っこ、と同じであるかどうかは分かりませんが、
私は、変わる人もいるし、変わらない人もいる、と思っています。
そして、変わる部分もあれば、変わらない部分もある、とも思っています。
人は幼い頃、親子関係に於いて、肯定的に扱われ、充分に、無条件に受け容れられる事で、
自分という存在に、疑問符を付ける事無く、安心感を得る事になります。
安心感は、その子に、
自分は存在するだけで価値が有る、という感覚を付与します。
その感覚に後押しされる様に、その子の心には、確かな【自分】という意識、が芽生え育ちます。
確かな【自分】という意識、は湧き上がる感情をすくい上げ感じ取る主体であり、言わば人生の、主役、とも言えます。
生きる上での経験は、この【自分】の上に積み上がります。
安心感に抱かれて芽生えた【自分】は、年齢に応じた発達課題を乗り越える事で、更に成長し、
発達課題を乗り越えた経験は【自分】の上に積み上がり、
【自分】は益々、強固なものになって行きます。
しかし、否定的な扱いをする親の下に生まれ、受け容れられるどころか、拒否され、利用され、貶められる親子関係に晒される子もいます。
当然の事ながら、その子は、自分という存在に疑いを持ってしまいます。
親から受け容れられない自分には、価値が無い、という感覚が焼き付きます。
その子に安心感は無く、あるのは、無価値感です。
安心感が無いところに、確かな【自分】という意識は育ちません。
【自分】は芽生えず、種子のまま心の中に転がります。
【自分】が育っていないのですから、湧き上がる感情をすくい上げ感じ尽くす主体が在りません。
人生の主役は不在です。
【自分】が無くては、年齢毎に現れる発達課題に、その子はことごとく躓きます。
【自分】が無いのですから、経験は積み上がる事は無く、心は成長の歩みを停めてしまいます。
人は変わるのか、変わらないのか、に話しを戻します。
肯定的な親の下で育ち、心に確かな【自分】という意識、を育てる事が出来た人は、【自分】が強固です。
【自分】は感情をすくい上げ感じ尽くす主体であり、人生の主役です。
その確固たる自分を持って、人生を歩んで来たのですから、良くも悪くも根本から変わる事は少ないかも知れません。
変わる事は少ないでしょうが、【自分】を持って人生を歩むその人は、軽やかな心持ちであるでしょうから、そもそも自分を変えたい、と切実に考える事は無いかも知れません。
否定的な親の下で育ち、拒否され、貶められる親子関係を生き抜いた人は、【自分】が育っていません。
湧き上がる感情を感じ取る事が難しく、人生の主役は不在です。
生きていて、安心感に満ち足りる事が無く、何かに追われる様な焦燥感、何かが足りない様な不全感に苛まれます。
その人は生きづらさを抱えています。
そんな生きづらい人が、生きづらさを手放す決意を固め、自分と向き合い、自分の成り立ちを腑に落とした時、
その人の【自分】はいっぺんに育ちます。
感情を余す事無く感じ尽くし、紛うことなき人生の主役が現れます。
それだけの内的変化が訪れたなら、その人は変わったと言うしか無い様に思います。
但し、その変化は、変わろうと思ったから訪れた訳では決して無い、のです。
むしろ、変わろうとする時は、自分という存在や自分の生きた軌跡を否定する方向を向いてしまいます。
自分と向き合い、自分という存在、自分の生きた軌跡、ありのままの今の自分を全部そっくり受け容れた時、
結果として、その人は、変わる、のだと思っています。
そして、冒頭に触れた、変わる部分もあれば、変わらない部分もある、というお話しですが、
生きづらい人が、ありのままの自分を全部受け容れて、
生きづらさを手放し、心が軽くなっても、かつて否定的な扱いを受け、傷ついたその事が跡形も無く消えて無くなる訳では無く、
心の傷は傷痕として心の内壁に残ります。
たとえば、かつて親から度々浴びせられた、「馬鹿だ」という言葉に深く傷ついていたならば、
大人になって、生きづらさを手放した後でも、他者から「馬鹿だ」と言われた時、
傷痕はにわかに存在を主張するかも知れません。
微かな痛みを放つかも知れません。
しかし、以前の様に痛みに呑み込まれたり、痛みを恐れたり、という事は無いのですが、
「此処に傷痕がある」という感覚は残ります。
傷痕が微かな痛みを放つ、という事は、その部分については、変わらない、と言えるのかも知れないと思います。
友人から、「人の根っこは変わらない」と聞いた時、
そう言えば、生きづらさを手放そうとする人が、変わらなきゃ、変わらなきゃ、と変化を求める方向に進み、
生きづらさを手放して、軽やかな心で活き活きと自分の人生を生きる、という目標から離れてしまう事が多々有るなぁ、と思ったことから記事にしてみました。
自分を変える事を求めると、今の自分を否定する事に、どうしても陥りがちです。
今苦しくとも、なりたい自分の像、を明確に持つことは大切です。
しかし、変化は求めるものでは無く、
ありのままの自分を受け容れた結果、
そうなる、ものだと感じています。
自分と向き合い、
自分を受け容れ、
今を生きる事が出来た時、
眩い変化の光りは射す、
そう思っています。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム