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「◯んで詫びろ。」と言う母に思うこと
親に対する恨みは、もう無い、と事ある毎に口にしてきました。
しかし、時として親の発する言葉に心の傷が大いに刺激され、なんとも言えない気持ちにさせられます。
父は私が高校生の時に他界しました。
両親共に過酷な幼少期を過ごした者同士の夫婦で、二人共無価値感が強く、誰かを貶めないと、自分達の存在価値を見出だせない人達でした。
誰かを貶めないと、と言っても、二人共無価値感に苛まれる人なので、本当の自信などは持ちようがなく、家庭の外に敵を作り、争う様な度胸は持ち合わせてはいません。
それでは、どうするのか?
完全に無抵抗な存在を日々吊るし上げるのです。
完全に無抵抗な存在とは、幼い日の私です。
健やかな家庭に育った人は、この様な話しは、信じ難く、ともすれば子供の方の被害妄想とか、甘えとか、と受け取られる事も少なくありません。
親から虐待を受けた人が、その事に気が付き、それが原因で抱えてしまった「生きづらさ」を手放そうとする過程は、
茨の道でもあり、孤独との戦いでもあります。
勿論、気づきが訪れたなら、一瞬です。
ですから、茨の道とか、孤独との戦いとか、言うべきではないのかも知れません。
もしも、この記事を読んで、そんなに大変ならこのままでいい、と思う人が居たとしたなら、それ相応に責任は感じますが、
「生きづらさ」を手放すには、本人の決断が必要です。
そんなに大変ならこのままで…と思う人は、自分と向き合う準備と決断が整っていない、と言う事だと思います。
私の場合は、もう一刻も待てない、何が何でも手放して見せる、という自分の内側から湧き上がる感情を押さえる事が出来ない程の渇望を感じました。
だからこそ、親への恨みは超越した、と思いたいのかも知れません。
しかし、生まれた時から責められ続けて生き抜いて来た訳です。
「生きづらさ」を手放す事は出来ますが、健やかな家庭に生まれ、励まされ愛を注がれて育った人と同じになれるか、というと、答えはNOです。
つい先だって、高齢になり、24時間の介護が必要となり、施設に暮らす母を見舞った時のこと、
「お前の落ち度のせいで、私はこんなに苦しんでいる。」
「自分に人が寄り付かないのも、お前の人当たりが悪いせいだ。」
「お前のせいで、私は寂しく死んでゆくんだ。」
「死んで自分に詫びてくれ。」
そう言われ、健やかな家庭で育った人なら、ショックは受けても、認知症が喋らせてるんだ、といったところに、落し所を見出すのかもしれませんが、
私の場合は大きな無価値の思い込みは、意味づけが変わった自覚はあるものの、その残骸や欠片は全て綺麗に消えて無くなった訳ではありません。
すると、こういった事を言われた時に、残骸がビリビリと反応します。
ただ、その反応に飲み込まれることも、引きずることも無くなりましたが、
瞬間的に「どの口が言ってるんだ。」と思います。
母の場合は、これまでの人生で責任を負った事がありません。
望まない出来事が起こると、近しい人の中からイジメ易いターゲットを選択して、その人が悪いと言いふらします。
まともな人は最初は騙されても、段々と疎遠になります。
母に人が寄り付かないのは、それが原因です。
そして、母は今、「老い」と言う避けようのない苦難を前に、うろたえています。
いよいよ周りには私しか居なくなり、私に対して盛大に駄々をこねて見せているのです。
母は責任を負ったことが無いので、人生は空っぽです。
自分がありません。
自分が無いのに、しがみつこうとするのは自分なのです。
母の手は空を掴みます。
母は空っぽの手を握りしめ、一番近しい、一番裏切りそうも無い人間を悪者に仕立て上げようとします。
だから、「死んで詫びろ。」とまで言います。
私が母に関して、何でも願いが叶うとしたら、
子供に返って、優しい眼差しを注がれながら、頭を撫でて欲しいのです。
後何年生きるのかもわからない今、「死んで詫びろ。」とは言われたく無かったとつくづく思います。
母に関する願いが、即座に出て来るということは、その事自体が母に関する囚われなのでしょう。
これを残骸とか欠片と言うには余りにも大きな塊かも知れません。
しかし、私は囚われに飲み込まれることは、ありません。
晩年まで来ても、母と私は恐ろしく隔たっていて、段々とその隔たりすら、「ま、いいか。」と無頓着になって行く事が、
寂しくもあり、どこか可笑しみも感じます。
与えられなかったからこそ、恋い焦がれた母なる愛は、幻でした。
それでいい、と言い聞かせてます。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム