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主人公は、自分

生きづらさの原因は、余程の特殊な事情が無い限り、
幼少期の親子関係にある、と私は思っています。



その生きづらい人の親は、無価値感に苛まれ、長く苦しみ、そしてその人を授かり、親になりました。

本来、我が子は愛おしい存在です。
しかし、その親は、払っても拭っても、後から後から湧き上がる無価値感から逃れる事だけが、もはや生きる目的になってしまっています。

自分を慕って止まない我が子の姿すら、愛おしい存在と認識する事が出来ません。
その親の目には、湧き上がる無価値感から目を逸らす為に利用出来る、絶対服従の存在、に見えてしまいます。

その人の親は、無価値感を怒りに包んで、幼いその人に力任せに投げつけます。

そして、こう言います。

お前のことを思って…、
お前の為に…、
お前を愛すればこそ…、

無価値感を怒りに包んで、ぶつけているのに、
それを愛だと言い張ります。
それが優しさだと言うのです。

その人は生まれた時から、理不尽にぶつけられる親の、怒りに包んだ無価値感、を愛であり優しさだ、と教え込まれます。

親の怒りに包んだ無価値感をぶつけられ続ける環境に育った人は、
大人になって尚、過剰に親への感謝を口にする場合が多く見受けられます。

親は私のことを思ってくれた、
親は私のことを愛してくれた、
そう言います。

では何故、思いやられ愛された筈のその人は今、生きづらさを抱えて生きているのでしょうか。


過酷な幼少期を過ごした生きづらい人程、親を崇め、不自然なまでの感謝の言葉を口にしがちです。

親は、自分が抑えきれない怒りに、抱えきれない無価値感を包んで、子供に投げつけている、という意識はありません。

自分は子供を思う愛情深い親だ、と思い込んでいます。

思い込んでいる、というのは、意識、の上では…、という事です。

その親は意識の上では、子を思う愛情深い親だ、と思い込み、

時に、自分の子育て論を他者に、雄弁に語ってみたりもします。

でも無意識の領域では自分の、愛、に自信がありません。
無意識の領域では、自分がズルく都合よく子供を利用している、という事を知っています。
無意識の領域では知っていても、その微かな後ろめたさがまたしても、無価値感を湧き立たせ、
親は更に、湧き立った無価値感を怒りに包んで、子供にぶつけます。

つまり、湧き上がった無価値感は全て子供にぶつけ、自分は愛情深い親だ、という自分にとって都合の良いファンタジーの世界に生きます。


子供は、徹底的に無力な存在、としてこの世に生を受けます。

無力な子供に唯一生まれた時から備わっている能力があります。
それは、親を慕う能力、です。

徹底的に無力な子供は親を慕う事で生きる仕組みになっています。

幼少期は子供が親を慕い、親が慕う我が子を愛おしく思い、無条件に受け容れる、特別な季節、と言えます。

しかし、その自然の摂理とも言うべき仕組みを蹴散らしてしまうのが、親の無価値感です。

その親が無価値感に苛まれる限り、やり場の無い怒りと無価値感は、全て子供にぶつけられます。

自然の摂理をも壊してしまう程、無価値感というネガティブ感情は、人が最も認め難い、どうしても目を背けたい感情なのです。


生まれた時から、親の無価値感をぶつけられ続ける子供は、無条件の受け容れとは正反対の在り方であるばかりでは無く、
親の無価値感を、その小さな背中に全て背負い込む事になります。

親は、自分は愛情深い親だ、という自分都合のファンタジーに生きています。

幼い子供に唯一備わった能力が、親を慕う能力ならば、裏を返すと、
親の思い通りになる、という事です。

つまり親が、自分は愛情深い親だ、というファンタジーの世界に生きれば、
子供は、たちまちのうちに、親が作ったファンタジーの世界に呑み込まれます。

ファンタジーの世界の住人になったその子は、親は愛情深い、親は自分を愛している、と思い込みます。

親は無意識の領域では後ろめたさを感じている、と言いましたが、
子供は子供で、ファンタジーの世界に取り込まれていながらも、
無意識の領域では、親に対する、疑念、を持っています。

意識の上では、親は自分を思いやってくれた、愛してくれた、と思いながら、
無意識の領域では、おかしいと感じ、親を疑っています。

しかし、それを子供は認める事は出来ません。
その疑念は、ファンタジーを粉々に打ち砕いてしまう、危険なもの、だからです。

だから、その人はやがて大人になっても不自然なまでに親への感謝を口にしますし、自分は愛された、と言うのです。


親は後ろめたさを隠し、子供は疑念を無いものにします。

いわゆる、生きづらい人を造り出す機能不全家庭の親子関係は、

嘘や隠し事の上に成り立っています。

その危うい成り立ちから親も子も、目を背けなければならないのですから、

親子で笑い合っても、心が本当に晴れる事も、触れ合う事もありません。


しかし、もしも生きづらさに気がついて、

ファンタジーの世界の綻びを見つけたなら、

心が晴れる事が無いファンタジーの世界から解き放たれるチャンスです。

恐れずに、綻びの穴から外を覗いてみて欲しいのです。

思うよりも、怖くは無い筈です。

何故なら、もう無力な幼い子供ではないからです。

親は、その人を犠牲にして今日まで生きましたが、

今度は、子供の立ち場を脱ぎ捨てて、

その人が自分として生きる番です。

親のファンタジーの世界で、

親のファンタジーを守る為に、

塞いだ心で生きるのは止めにして、

自分の人生を生きるのです。

主人公は、自分、なのです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム







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