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近道を探すほどに遠回りになる「心のこと」

生きづらさを手放すことを願う時、
自分と向き合うことが始まりで、
自分と向き合うことが全てとも言える気がします。

生きづらさの原因は、余程のレアケースを除いては九分九厘、幼少期に負った心の傷にあります。

原因が幼少期にあるという事は、その人は長い間、生きづらさを抱えて人生を歩いて来たのです。

その人が20代半ばならば20年、
その人が40代ならば40年です。

心の傷は、幼い子供が自分の感情を捨てて、親が望む感情表現をしなければならなかった環境によってつくられる事がほとんどです。

親がその子に笑うことを求めていると察知したら、泣きたい気持ちを捨てて、その子は笑います。

では泣きたい気持ちは消えたのでしょうか?

泣きたい気持ちは、心の奥底に冷凍保存されます。

子供が感情を捨てなくてはならない環境は機能不全家庭です。

機能不全家庭に育ったその子は、心の奥底に怒りや恨みなどのネガティブな感情を日々、冷凍保存します。

その貯まりに貯まった、冷凍保存された感情の重々しい存在感が生きづらさとも言えます。

20年、40年、場合によってはもっと長い間、心の奥底に冷凍保存されたまま、放置されたネガティブな感情はカチカチです。

おびただしい数のカチカチのネガティブ感情の影響は、この人の感情の動き自体を制限します。

この人の感情は可動範囲がとても狭くなってしまっています。

大きな怪我をしてギプス固定したなら、ひと月、ふた月してギプスを外した時、筋肉は固くなって思う様に動きません。
先ず、リハビリが必要になります。

私は生きづらさを手放す時の心はケガ明けの筋肉に似ていると思うのです。

生きづらさを手放す事を願い自分と向き合います。
そして、求められるのは、
信じること、
決断すること、
なのですが、

感情がカチカチに固まっていると、
信じることが出来ません。
信じるには、感情が動く事が必要だからです。

決断することが難しいです。
決断するには、心の中に「確かな【自分】という意識」が必要です。
感情が動くことと、【自分】があるという事はイコールで括ることが出来ます。

信じるとき、【自分】が信じます。
決断するとき、【自分】が決断します。

つまり、感情が固まったままだと、信じることは難しくなりますし、
決断は困難を極めます。

更には、「自分と向き合う」のも、
向き合う【自分】の輪郭が曖昧だと、難易度は上がります。

ギプスを外したらリハビリをする様に、20年、40年、もっと長い間、固まっていた感情をほぐさなければならないと考えます。

生きづらさを手放す過程で
心の傷を誰かに吐き出し、受け入れてもらうことは大切なプロセスです。

しかし、心が余りにも固くなり過ぎていて、充分に吐き出すことすら、出来ない人は少なく無い様に思っています。

その場合、特徴的なのは、心の傷の原因となった幼少期の出来事については、理路整然と話す事が出来ても、その時の感情については淡々とした他人事の様な語り口になることが多く見受けられる様に思います。

感情が固まって、充分に動かない状態で、信じようとしても、決断しようとしても、【自分】の輪郭が曖昧なので思うに任せません。

その時は、ギプス固定後のリハビリの様に、心をときほぐすことが大切だと思うのです。

その方法は、日常の自分の感情をつぶさに観察することなのです。

目覚めた時の気分、感情をしっかり見つめます。
歯を磨く時、朝食を食べる時、玄関を出る時、なんでもない日常の自分の感情をつぶさに拾い上げ、味わいます。

子供騙しな取り組みと思われますか?

しかし、やってみると自分が何の感情の動きも無く、機械の様に生きている事に驚きます。

そして、そう遠く無く、感情が動き始めている事に気づくと思います。

今、八月の中旬です。
九月の後半には、街角で金木犀の花の香りに気がつく、そして「いい匂いだ」と感じる自分になっていると思います。


心の事は、ひとつが動けば、色々な変化がいっときに起こることを心に留めていて欲しく思います。

心の傷、いわれなき思い込みが癒えれば、【自分】が現れること、
感情の境界線がくっきりと引かれること、
自分に「有価値」を感じること、
は、同時に起こります。

心の傷は、複利で増えて傷だらけになりますが、一旦癒えると一気に豊かな方向に走り出します。

生きづらさを手放すことからは、離れている様に思われる向きもあろうかとは、思いますが、

自分と向き合うという事が解らない。
信じることが出来ない、解らない。
決断が出来ない、解らない。

という事であるなら、

少し感情をほぐし、少し感情を動かし、少し【自分】を出す事が、生きづらさを手放す助けになる様な気がします。

感情が固まったまま、【自分】が無いまま、
【自分】と向き合おうにも【自分】は無く、
信じようにも主体の【自分】は無く、
決断しようにも主体の【自分】がありません。

心の事は、

近道を探すほどに遠回りになり、

遠くても少しでも進みたいと覚悟を決めたときに、

はじめて道は拓けるのではないか、と思うのです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム

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