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ボクは幼稚なおもちゃで遊びたい、ペルソナとシャドウ

その人は幼い頃、好きな物を否定されました。

大好きなヒーローのおもちゃが欲しい、と言った時父親は、
「そんな幼稚な物が欲しいだなんて、恥ずかしい。」と言い、
その後延々と、ヒーローのおもちゃがどんなに幼稚で、どんなに役にたたない物か、
それを欲しいと思うことが、どれ程恥ずかしい事か、
嫌と言うほど、聞かされました。
聞かされた、と言うよりも、なじられました。

父親は何も買ってくれない訳ではありません。
誕生日には、知育玩具と呼ばれる、遊ぶには簡単な計算が必要なおもちゃと、ちょっと背伸びしないと理解出来ない本を買ってくれました。

父親は、「遊んで頭が良くなるなんて、スゴいだろう。」とご満悦でした。

「この本は、勇気とは何か、が解る物語だ、高価いんだからな。」と言っていました。

幼いその人は、少しも嬉しく無く、本当はヒーローが変身する時に使う、変身ベルト、のおもちゃが欲しかったのですが、

幼稚で、役にたたなくて、欲しいと思う事が恥ずかしい物だから、もう口には出せませんでした。

そして、ご満悦な親に調子を合わせます。
「いっぱい遊んだらスゴく頭が良くなるね!」
「読んだら勇気のある子になれるね!」
「スゴく嬉しい、お父さんありがとう!」

最高の笑顔を作ってそう言ったら、涙が零れました。

胸の中で、口に出してはいけない言葉が弾けました。
「こんなのちっとも欲しくない!ボクは変身ベルトが欲しい!」

口には出せません。
呑み込みました。
でも、涙が零れたからバレました。

「お前の為を思って、せっかく買ってあげたのに、泣くほど嫌ならもう使うな!」
「幼稚なヤツだな!」

そう言って、知育玩具と本をテーブルから、はたき落としました。

幼かったその人は、怖さと、悲しさが入り混じった感情を抑えられずに、とうとう声を出して泣きました。

すると父親は、
「幼稚なお前を賢くしてやろうと思って、泣き虫なお前を強くしてやろうと思って買ってあげたのに、泣くとは何事だ!」
ゲンコツを一つもらいました。

ゲンコツを貰った箇所では無く、頭の奥がガンガンと痛みましたが、涙は止まりました。

ゲンコツを貰った箇所では無く、胸の奥が破けた様に感じましたが、もう泣きませんでした。

その人はやがて、友達の弱さや、幼さ、が許せない少年になりました。

その人の心の中の判断基準に、好きか嫌いか、心地よいか不快か、という項目は記載が無く、
得か損か、優れているか劣っているか、だけが明記されています。

幼い日の誕生日の一件だけが、その人をそうさせた訳では無いと思いますが、誕生日の一件は象徴的な出来事で、

その人が晒された親子関係には、誕生日の出来事と同じ空気が常に漂っていたのだと思います。

その人は、幼稚である事、子供らしい事を断罪され、

役に立つ知育玩具が優れていて、
好きなおもちゃは役に立たない劣ったもの、と決めつけられ、

ご満悦な親に迎合して、笑顔を作った時のみ受け容れられ、
親の意に反して、涙を零せば否定され、なじられました。

その人の心は、二つに裂けました。

親に受け容れられる自分と、
親から決して受け容れられない、恥ずべき自分に裂けました。

心理学者ユングは、自分が他者に自分をこう見て欲しいという肯定的な側面を「ペルソナ」つまり「仮面」と言い、
その逆に否定して絶対に認めたくない側面を「シャドウ」つまり「影」と呼びました。

その人は、ペルソナとシャドウに裂けました。

ペルソナは、幼稚では無く大人びて、賢く優れている自分です。

シャドウは、幼稚で子供じみて劣った自分です。

その人のペルソナは親から受け容れられる自分なのですから、親の価値基準を基にして成り立っています。

その人は、そんな事は自覚していませんが、親から否定された幼稚で劣った自分を、自分自身で否定して、決して自分である事を認めず、シャドウとして閉じ込めてしまったのです。

人には良い部分もあれば、悪い部分も必ずあります。
しかし、悪い部分を閉じ込めてしまうのですから、
二つに裂けた時点で、本当の自分は二分の一です。

二分の一になっただけにとどまらず、ペルソナは肥大化します。

たとえば、その人が勉強が得意だったとします。
勉強が得意だという事に気がついたその人は、得意な勉強に頼って、親から認められる自分に固執します。

すると、その人の中で、勉強、という親や周囲から認められる手段がペルソナの大部分を占めるほどに肥大化します。

ペルソナは内側から押され、ペルソナ自体が膨れ上がり、その人の心を占領して行きます。

二分の一どころではありません。
やがて、ペルソナがその人、になります。

その人は、勉強が好きだと思っていますが、親や周囲が認めてくれるから、好きなのです。
つまり、損得、優劣、です。

そもそも、その人は情緒が育っていません。
幼い日、親から否定された時点で心は凍りついて、成長の歩みを停めています。

凍りついて成長の歩みを停めた心は、ペルソナとシャドウへと二つに裂けています。

凍りついて成長の歩みを停め、二つに裂けた心は、更にペルソナが膨れ上がり、情緒は成長しないまま、その人がペルソナに占領されてしまいます。

その人は、自分が感じ、自分が考え、自分の目で世の中を見ている、と思っていますが、

ペルソナが感じ、ペルソナが考え、ペルソナの目で世の中を見ています。

情緒が成長していない、ということは、他者のあたたかさが分かりません。
好き嫌い、快不快、は判断基準にならず、損得と優劣で世の中を見ます。

すると、優しさや思いやりを持って近づく他者を、劣った者と判断し嘲笑し遠ざけます。
親と似た他者を迎え入れます。

それで生きづらくならない方が不思議ですが、その人は、思いやりを嘲笑します。

その様な状態の人を、自己愛性パーソナリティ障害、或いは境界性パーソナリティ障害とカテゴライズし、切り捨てる風潮がありますが、

掘り下げると、幼少期の親子関係に起因する、無価値の思い込み、に辿り着く、と私は思っています。

思い込みは、いわれのないもの、であり、

どこまで行っても、単なる、思い込みに過ぎません。

ペルソナの占領を解き、
凍って縮こまっている自分を温めたなら、

思い込み、は払うことが出来ます。

その人が先ず、気がつく事が出来たなら、

道は拓けるのです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム









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