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情緒未成熟な親は決して気づこうとしない

2対7対1の法則、を耳にした事が有る方は少なく無いと思います。

改めてご説明致しますと、

2対7対1の法則とは、人間関係において、
「10人いたら、2人は気が合う人、7人はどちらでもない人、1人は気が合わない人になる」という法則です。

この法則は、ユダヤ教の教えに由来していると言われています。

2対7対1の割合いがどの程度正確なのかは分かりませんが、
私の肌感覚では、大きく外れてはいない様に思います。

放っておいても好感を持ってくれる人も在れば、
どんなに努力をしたり、対人的なテクニックを駆使しても嫌う人も居て、
大半の人は、何とも思っていない、ということです。

しかし、目の前の人、もっと言うなら、あらゆる人に好かれる事を強迫的に求める人は少なく無い様に思います。

なかなか満ち足りた心持ちにはなり難いだろう、と思う人の代表的な対人パターンが、この皆に好かれたい、というものです。

どう頑張っても、自分を良く思わない人とは必ず出会うのですから、
皆に好意を持ってもらいたい人は、不可能を可能にしようとしている訳です。
労多く実り少ない生き方になる、と言わざるを得ません。

本来、私達がコントロール出来るのは自分の心だけ、なのにも関わらず、
会う人会う人、全員に、
目の前の人に、必ず、
世界中の人から、漏れなく、
好かれようと思ったら、この世は腹立たしく、出会う人は無礼者ばかりの世界に変わります。

2対7対1なのです。
その比率の正確性は脇に置いても、大半の人は、無関心ですし、中には理由も無く嫌う人も居る訳です。

そんな中、好いてくれる人を際限なく求めるのですから、

世はとんでもなく理不尽で、
他人は揃って冷たく思えます。

本来は、言うまでも無く、自分は自分、他人は他人です。

自分の感情の処理は自分の中で完結するのが、最も安定をもたらします。

自分にとっても、他人にとってもそれが好ましいのだろうと思います。

もっとも、そうは言っても、生きていれば、色々な出来事が起こりますし、体調の良し悪しなどの諸条件に引っ張られて、

ついつい抑えが効かず、感情が表に溢れ出す事もあります。

それが、たまに、であれば、何の問題も無い、
むしろ人間らしい、とすら思います。

ところが、他人からとにかく好かれたい、よく思われたい、羨まれたい、一目置かれたい、という思いに支配される事が常態化すると、

とても生きづらくなってしまいます。

そういった思いに支配された状態は、言い換えれば、他人の目、に支配されている、という事、
もっと言うなら、他人に心を明け渡している、という事です。

自分の機嫌は、他人から好かれたら良くなり、嫌われたと思ったら悪くなります。

他人から、スゴい、と言われたら自分の価値が上がった様に感じ、ダメだね、と言われたら自分の価値は地に落ちます。

全部が他人任せ、です。

他人任せ、というと、他者に影響されるがまま、といった印象になりがちだと思うのですが、

自分の中で感情の処理を完結出来ない人は、他人に感情の処理を押し付けます。

つまり、自分の機嫌を自分で取れないから、他人に自分の機嫌を取ることを強要する、ということなのです。

周りからしてみたら、その人の機嫌など知った事では無いのです。

子供じゃないんだから…、と呆れます。

当たっています。

その人は見た目は立派な大人でも、情緒は未発達で、幼い子供のまま、なのです。

その人の怒りの噴出は、子供が地べたに寝そべって手足をジタバタさせて駄々をこねている状態です。

その人の不機嫌は、子供が不満でほっぺたを、ぷーっと膨らませているのと同じです。

その人は、自分の機嫌は他者が取るべき、と思っています。

気難しい、いつもしかめっ面の老人も、心の中で膨れっ面をしているのです。

パッと思いつく限りで言っても、巷で言われる、
八方美人、自意識過剰、自己愛過多、かまってちゃん、メンヘラ、悪質なクレーマー、ストーカー、DV夫などといったものも、

一見、現れ方は様々に見えますが、自分の機嫌を自分で取れない、情緒未成熟な大人、です。

幼児が自分の情緒の成熟度を測れない様に、情緒未成熟な大人もまた、自分の不機嫌は他者がけしからんからだ、と思っているのです。

情緒未成熟な大人が、己の未熟さに気がつくのは、いよいよ機嫌を取ってくれる他者が一人も居なくなった時や、

人生が壊れてしまう程の窮地に立たされた時です。

いわゆる、底打ち体験、をして、自分の人生の責任は他者に無く、全部自分にある、と腹から解った時です。

そこまで行かないと気がつかないし、気がつかないまま生涯を終える人は沢山います。


子供を、生きづらい人、にしてしまう親も、情緒が未成熟な大人です。

心の中で、駄々をこねようが、膨れっ面をしようが、
その親の意識に乗る頃には、躾けと教育にすり換わっています。

本来、幼い子供は分別がありません。
未成熟だから、です。
駄々をこねて然るべき年齢です。
ぷーっと膨れて親に機嫌を取ってもらう年なのです。

しかし、親は心だけは幼いですが、身体も大きく、力も強く、何より立ち場は圧倒的に強いのです。

すると、親が心で駄々をこねたら、子供が機嫌を取る様になります。

親が心の中でぷーっと膨れっ面を作ったら、子供は素早くそれを察知して、また、機嫌を取ります。

親と子の役割は逆転しています。

その子は、親の顔色を伺い、親の機嫌を取る幼少期を過ごします。

その子は子供らしい子供時代を失い、やがて生きづらさを背負います。

我が子に生きづらさを背負わせた親は、
読みかじり、聞きかじりの知識を根拠に、医療機関の門を叩きます。

この子がおかしい、と主張します。
情緒未成熟な人は、世の中や他者が悪いとしか感じられないので、

自分が子供に親の役目を押し付けて、子供の心をすり減らした事に気づきません。

ここでは詳しく言及しませんが、医療機関は医療機関で、あっさりと、お子さんは〇〇障害です、とお墨付きをくれます。

私は、確かに障害の場合もあるでしょうが、心に傷を負っていて、生きづらくなっている子が、心への正しいアプローチ無しに、〇〇障害のお墨付きを貰っている場合が相当数有ると思っています。

お墨付きを貰った情緒未成熟な親は、何があっても自分の非には気がつかない心の構えに持って来ての、お墨付きですから、

この子の問題、と解釈します。

自分がその子の心を擦り減らせた事には、気がつきません。

この子の問題ではありません。
親の心の問題です。

子の心の問題の多くは、親の心に根が伸びている、と思っています。

届くことではありませんが、

気がついて欲しいと、

願って止みません。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム








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