一冊の本 生きづらさの理由
出逢い
たまたま手に取った本、
今の自分にとって必要な情報が見つかること、ありませんか?
NAMIDAサポート協会カウンセラー
心の伴走者ノゾムです。
本との出逢いで、人生が変わった人は、勿論たくさん居るんだと思います。
一生懸命、探した訳でも無いのに、たまたま手に取り、たまたま開いたそのページに、今の自分に必要な事を見つける。
そんな経験は、私、ノゾムに限らず、よくあることなんじゃないか、と思うんです。
不思議ですよね。
今の世は、スマホという図書館をポケットに入れている訳で、検索すれば情報はいくらでも瞬時に手に入ります。
ほんとに便利です。
その恩恵は、充分受けてますし、デジタル否定派では、決してないんですが、本は本で、また別物という捉え方なんです。
一時期、Kindleばっかり使っていた時期もありましたが、今はまた、原点回帰、紙の本に戻ってます。
もちろん、調べものなんかは、スマホとPCです。
しかし、口はばったいですが、運命(笑)は断然、本。
大きく言えば、人生の要所々々で色々教えてくれる訳です。
なんでそんなに本に固執するのか、と言うと、この本に出逢わなかったら、自分は潰れていたな、と思うことなど有りまして、自分の中では確信めいたものが有る訳です。
生かされる
私、ノゾムはとにかく、行き当たりばったりというか、思いつきというか、刹那的、衝動的な半生を過ごしました。
時代も良かったのだと思いますが、それでも許され、生きてました。
でも、自分の中では、どうしてこんなに落ち着きの無い生き方になるんだろうと、いつも思ってました。
そんな生き方に、だんだんと疲れて来ていたんだと思います。
学生時代から、先の見通し、計画性が無く、場当たり的な行動ばかり繰り返していました。
40歳を過ぎた頃、一時に、商売に失敗し、家族を失い、住む場所も失うという、世に言う「底打ち体験」をしました。
それでも、これまでの様に、また生きてやる、と思ってました。
ところが、
動けなくなりました。
何も出来なくなりました。
心が割れてしまった感じがしました。
あ、終わったんだ、
そう思いました。
動けなくなる直前に、住む場所は確保していたのは幸運でしたが、
それから2年間、何も出来なくなりました。
割れた器から、水が流れ出したように、空っぽな自分が居ました。
いくらか調子のいい日に、食料を買いに外出します。
街は灰色に見えました。
ビルが覆い被さって見えました。
道行く人は皆、悪意を持っていると思えました。
自分はどうしてしまったんだろう、
自分は何なんだろう、
どうでもいい。
めんどくさい。
ただ、苦しい…。
ふと、目的もなく書店に入ってみました。
文庫本コーナーに立ちました。
すると、「心の休ませ方」というタイトルが目に飛び込んで来ました。
加藤諦三氏の著書でした。
何もしてないのに、とにかく疲れていたので、なにかしら優しく癒やされるのかも知れないと、タイトルだけで、その文庫本を買いました。
文庫本コーナーに居たのは、ほんの20秒ぐらいだったと思います。
今思うと、心を休ませたい男が、「心の休ませ方」を選ぶのは、あまりにも直接的で可笑しくもあります。
その頃は、食料や日用品を買うのも、判断がつかず、買い物にえらく時間がかかっていた覚えがあります。
何を買えばいいのか、買わない方がいいのか迷うんです。
これは、意識が過去と未来に、そして不安にばかりフォーカスして今に全く目が向かないことによる迷いです。
心のしくみを学んだ今は、なぜ小さなことさえ判断がつかなかったのかは、理由がわかりましたが、当時は自分に何が起きているのか全く解っていませんでした。
そんな状態でしたが、その文庫本は、なぜか迷うことなく、見て、手に取って、直ぐにレジに向いました。
買い物の行き帰りですら、重労働に思えていたのですが、その日は早く癒やされたくて、急いで帰りました。
部屋に着いて、本を開き読み始めると、どうにも同じ行を何度も読んでしまう事に気が付きました。
これも、買い物のときの迷いと同じ理由から生じるものです。
今を生きることが全く出来ない状態です。
今は理由も理屈も解りましたが、当時は久しぶりに細かい活字を読むからだろうと思ってました。
同じ行を読んでいても、先に進まないので、定規を当てて読み進めました。
冒頭の語り口だけは、優しかったのですが、読み進むほどに、変な汗をかきました。
本の内容は、機能不全家庭について書かれていました。
その本を読むまで、自分は人並み以上に両親から愛されて育ったと思ってました。
周りの奴らは、愛されてないから、甘やかされていると、幼い頃から思ってました。
褒められないのも、怒られてばかりなのも、
望むことは、何ひとつ叶えられないのも、体罰も、何から何まで、愛あればこその、厳しさなんだと信じてました。
ただ、愛されていた、と自分の中で思う度にに、胸の奥でチクッと小さなトゲが刺さる様な痛みを感じていました。
機能不全家庭は、自分が暖かだと信じた家庭のことでした。
愛あればこそと信じた厳しさは、虐待でした。
全部が逆さま、全部が嘘…。
全てがひっくり返ったことで、本当の奈落、本当の底打ちを感じました。
愛されている、と思った時に走る、あのチクッとした痛みは、本当は愛ではないことを知っていたから、感じる痛みだったんだと思います。
けれども、無力な子供は愛されていると信じなければ生きられません。
だから、信じた。
だから、無理矢理に信じた。
それが、小さなトゲの痛みです。
それから、本当の奈落の底を這いずる思いを経験しますが、あの本に出会わなければ、潰れていたと思います。
出会わなければ、愛されていた、という幻想の世界に溺れて、自分を責め続けたと思います。
両親の溢れる愛を裏切って、動けなくなった自分を責めて、呪ったことと思います。
一冊の文庫本に救われたと思っています。
いつもは立ち寄ることのない書店に入り、
心を休ませたいからと、
笑い話の様な理由で
文庫本を手に取ったお陰で、
こうして生かされています。
Kindleもいいけれど
口はばったいですが、
運命は断然、本なのです。
個人の意見です。(笑)
NAMIDAサポート協会カウンセラー
心の伴走者ノゾム