誰に怒ってる?親に!
機能不全家庭は、強烈な生きづらさを抱える親が、その生きづらさから目を背ける為にある場所、です。
あたたかな団らんの場所でも、子供が巣立つまでの安心・安全の場所でもありません。
しかし機能不全家庭の親は、あたたかな家族であるかの様に体裁を整える事に熱心です。
子供思いの親である体を保とうと必死です。
その実、機能不全家庭の親は、団らんを知りませんし、安心・安全な巣に暮らした事もありません。
何故なら、機能不全家庭の親は、機能不全家庭に生まれ育った人だから、です。
実体験として、あたたかな家庭を知らないのに、イメージだけであたたかい家庭を装うから、ぎこちなくなります。
親から守られた事も、思いやられた事も無いのに、良い親のイメージに近づこうとするから、不自然です。
あたたかな家庭でない事、子供を思いやってあげられない事は、それだけで其処に育つ子供の心に大打撃を与えますが、
最も罪深いのは、あたたかく無い家庭をあたたかいと言い、
子供を都合のいい様に利用しながら、子供の為を思っているフリをする事です。
生まれた時から其処に育った子供は、冷たい事をあたたかいと思い、
利用する事される事を、思いやりとはき違え、
嘘を真実だと認識します。
その子は、全部が逆さまに見える世界に生きる様になります。
すべてが逆なのですから、愛したいと思いながら傷つけ、
幸せになりたい、と願いながら不幸に向かって歩きます。
軽やかな心になりたい、と願う程に、心は重く塞ぎます。
活き活きと、今、を生きたい、と思いながら、生きづらさ、を抱えます。
逆さまの世界を見る様になり、生きづらさを抱えるに至ったその子が、やがて親になった時、
冷たい家庭をあたたかいと言い、子供をいい様に利用しながら、子供の為を思っているフリをする親になります。
そうやって機能不全家庭は世代間で連鎖します。
生きづらさを抱えた人は苦しんだのですから、犯人探し、をしたくもなります。
しかし、機能不全家庭の家系は皆が被害者であると同時に加害者もしくは共犯者でもあるのです。
犯人探しをしても、生きづらさから解放される事はありません。
生きづらい人は、親が抱える重大な生きづらさから目を背ける為に利用され、心は傷だらけです。
傷ついてしまった責任は、幼かったその人には一切ありません。
しかし、生まれた時から利用され、それを愛だ、と信じ込まされ、その人は、傷だらけになった自分が悪い、と思い込んでいます。
愛されたのに、こんなになってしまった自分が悪い、と自分で自分を責め苛みながら生きています。
自分を責め苛みながら生きて、あまりの苦しさに、その人は自分の生きづらさに気がつきます。
生きづらさを手放して、苦しみを脱したい、と願います。
生きづらさを手放すべく、自分と向き合い、過去を辿ります。
過去を辿ると、様々な事が見えて来ます。
あたたかいと思っていた家庭は、冷え冷えとした氷の様な場所であった事、
愛されていると信じた親は、自分を利用していたという事、
全部がはっきりと見える様になります。
騙された、と思い、激しい怒りを感じます。
それは、生きづらさを手放すプロセスとして必要な事です。
怒りは、感じ尽くして初めて消化されます。
心はかつて無い程の怒りに、大きく揺さぶられます。
揺れていいのです。
感じ尽くします。
どうして怒っている?
騙されたから、
どう騙された?
愛されてなかった、
利用されてた、
信じていたのに、
誰に騙された?
親に、
誰に怒っている?
親に!
怒りは、正しい方向を向いて、感じ尽くして初めて消化されます。
消化されて、腑に落ちるのです。
自分と向き合い、過去を辿るのは、犯人探しをする為ではありません。
これまで、自分が悪い、と決めつけて生きて来たけれど、
幼かった自分は何も悪く無い、という事を腑に落とす為に、向き合い、辿ります。
一度は身を焼き尽くす様な怒りの業火に巻かれます。
それは、生きづらさを手放す為の正しいプロセスです。
しかし、腑に落ちた時、
過去は過去、今は今、
親は親、自分は自分、
と明確に切り分ける事が出来ます。
それが、
過去への囚われ、からの解放であり、
今を生きること、の始まりであり、
親を越えた証しであり、
自分として、
自分の人生を歩むスタートラインです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム