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親ガチャ以前にガチャがある、そして私は不幸じゃない

心理カウンセラーという仕事は、未曾有の天変地異や戦争といった嵐の様な状況の最中にあったなら、

真っ先に消し飛んでしまう職業だと思っています。

皆が、ただ生きるだけで必死だから、です。

生きづらい、などと言っている場合では無く、
たとえ直面する現実が、理不尽極まりないものであったとしても、
現実を現実として捉え、その中で生きるしか無いのですから、

人々は悩みや苦しみに埋没する余裕すら無い、という事です。


決して現在、生きづらさを抱えて生きる人の苦しさ、を軽く扱うつもりはありません。

軽く扱うなら、カウンセラーになる事も、こうして発信する事も無い訳です。

その苦しさ、辛さ、寂しさ、虚しさ、よく解っているつもりです。

しかし、生きづらさを抱えて生きる多くの人は、

視野が極端に狭まった状態に在り、世界中の不幸が自分の元に集まってしまっている様な心境に陥っている事は否定出来ません。

心のこと、の答えは自分自身の中にあり、決して他者にはありませんが、
唯一の例外が、その人が生きづらさを抱えるに至った、原因、です。

余程のレアケースを除いて、その人が生きづらさを抱えるに至る原因は幼少期の親子関係にあります。

大雑把に言うと、親が親になるに相応しい段階まで、心が成熟しておらず、
子供を守り愛する筈の親という立ち場にありながら、
逆に子供を利用し子供から愛される事を求める親だった事が、
その人が生きづらい人になった原因です。

つまり、心のこと、でありながら、答え、原因、はその人の心に無く、幼少期の親子関係、
もっと言うなら、親の心、にあるという事です。
その人の生きづらさの原因は、親が抱える生きづらさ、と言えます。

生きづらさを抱える人が、抱える生きづらさの原因が親にある、という事まで紐解いて、
親を問いただす事は多くあります。

しかし、遠い昔の幼い頃にあなたからこんな事をされた、こんな仕打ちを受けた、と言ったところで親は、

そんな事は無かった、
お前の考え過ぎだ、
と言い、

今更そんな事を言うな、
だったらどうしてその時言わなかったんだ、
と言います。

その親は、子供を利用した意識は薄く、半ば本当に、自分は子供思いの愛情深い親だと思っています。
だから、そんな事は無かった、と言います。
自分は愛情深い親だと思い込んでいますから、お前は考え過ぎ、と言いますが、
お前は考え過ぎ、は、お前はおかしい、と同意です。


今更そんな事を言うな、どうしてその時言わなかったんだ、と言いますが、幼い子供は親を慕う様に出来ています。

幼い子供は、徹底的に無力な存在であるが故に、親を慕う事で生きる仕立てになっています。

親は、その子が何をしても受け容れ、自分を慕って止まない事を知っていて、その子を虐げたのですから、

どうしてその時言わなかったんだ、は、卑怯な台詞です。
盗人猛々しい、とはこの事です。

生きづらさを抱える人が、生きづらさに気がついて、親を問いただそうとして、

こういった言葉を親から浴びせられ、逆に、お前はおかしくなった、などと結論づけられる事例を私は幾つも知っています。

生きづらさに苦しむその人の、余りにも報われない事に、
理不尽という言葉では片付けられない無念を感じます。

その人の苦しみは嘘ではありません。
その人の無念に嘘はありません。
その人が生きづらさを抱えた責任は一切、幼かったその人にはありません。

その人が、心が未成熟な親の下に生まれついたからそうなった、としか言い様がありません。


私が嫌いな言葉のひとつが、親ガチャ、なる言葉です。

確かに、言い得て妙、です。

コインを入れて、ハンドルをガチャッと回せば出て来る、おもちゃの入ったカプセルの様に、

当たるも八卦当たらぬも八卦の運任せ、だと捉え、

この親の下に生まれ、生きづらさを抱えて苦しむ事は、仕方が無かった、だから私はこうなってしまった、という落とし所に落ち着けば、

悪いのは親で、親ガチャでハズれを引いたから自分はこうなってしまった、という結論に安住する事が出来ます。

しかし、其処に安住する限り、生きづらさからは解放されません。

生きづらさに気がつきながら生涯、其処に安住する事を選ぶ人も沢山いますし、

気がついたからには、生きづらさを手放さなければならない、という事はありません。

その人の人生は、その人が決めるべきですし、その人にしか決められません。

生きづらさに気がついて、そしてその生きづらさを手放そうと思うならば、という但し書きが付きますが、

親ガチャがハズれた 「からこうなってしまった」という捉え方を脱却して、
親ガチャがハズれた「にもかかわらずこうなれた」という境地に立つ事は、生きづらさを手放すことそのもの、だと思うのです。

苦しみ、無念、を承知の上で、それでも「にもかかわらず」という捉え方が必要である事をお伝えしたいのです。

無理を道理にする様な事を可能にする上で、
親ガチャにハズれた事実はあるにしろ、
貧困や劣悪な治安に晒されて、明日をも知れぬ場所に生まれた訳では無い、という事を頭の隅に置いておくのは大切だと思うのです。

私達は有無も言わせぬ生命の危機に直面する様な場所には生まれなかった強運を引き当てています。

幼くして生命を失う事も無く、食うに困ってストリートチルドレンになる事も無い場所に生まれ落ちた事は、

親ガチャ以前のガチャで当たりを引いています。

強運だったからこそ、

生きづらさに苦しんで、

生きづらさに気がついて、

生きづらさを手放すことだって出来ます。

苦しみの最中に在る人は、

そう言われると、腹立たしく思うかも知れませんが、

世界中の不幸が自分に集まっている、などと思わないで欲しいのです。

親ガチャ以前のガチャは当たりを引いています。

あとは、「にもかかわらず」という捉え方を癖付けます。

強運だったから、

今日まで苦しんで、

強運だからこそ、

明日、手放すことが出来ます。

親ガチャにハズれ、

苦しんで、

気がついて、

そして、手放します。

不幸は、自分が不幸だと決めた時訪れる選択肢の中のひとつに過ぎません。

生きづらさを手放す決断をした人は、

もう不幸なんかじゃないんです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム









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