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生きづらい人は自分の感情にダメ出しする

幼い頃から親との関係性の中で、常に否定的な扱いを受けた人は、どうしても生きづらさを抱えてしまいます。

はしゃぎたくても、親が望めば大人しくし、
泣きたくても、笑うことを親が望むなら笑ってみせます。

自分の感情は放ったらかしで、親の顔色を見て、察知した親の感情を優先します。

叱られるにしても、この子は感情の発露を否定されます。

はしゃいで花びんを割ったとします。
浴びせられる言葉は、
「どうしてはしゃぐの!馬鹿みたいに!」といったものです。

子どもですから、はしゃぎたくなります。
「どうして」と言われても「はしゃぎたいから」としか言い様がありません。

この子は、はしゃぎたくなる自分は馬鹿で無価値だと思い込みます。

叱っていいのは、「行動」と「結果」です。
「暴れちゃダメでしょ!割れちゃったじゃない!」
ならば、はしゃいでも良いが暴れる「行動」は、花瓶を割る「結果」を招く、と学びます。

子どもの湧き上がる「感情」を、何故はしゃぐ、と責めてはならないのです。
なぜなら、
「感情」はその子の自由な領域であり、他者がズカズカと入り込んではならない領域だから、です。
たとえ大人から見て好ましく無い感情をその子が持ったとしても、それは、その子の自由です。

そして、
「馬鹿」と断じる事は、その子の「存在」を否定する事です。
その子は自分を「馬鹿」だと思うし、「馬鹿な自分には価値が無い」という思い込みを心に貼り付けてしまいます。

叱るにしても「感情」と「存在」を否定してはならないのです。

叱るのは「行動」と「結果」です。

日常的に「感情」の発露まで干渉され、「存在」を否定されたら、

その子は、自分の「感情」や「存在」は極めて価値の低い、或いは、恥ずべきものと無意識に思い込みます。

人間は「感情」の動物であり、出来事が起こる度に感情が湧き上がります。

人の人生は、湧き上がる「感情」の連なりと言えます。

その自分の「感情」をこの子は、悪いもの として感じ取ることになります。

感情が湧き上がる度に、この子は自分で自分にダメ出しをするのです。

優しくない自分はダメだ、強くない自分はダメだ。

誰しも優しい気持ちになれないことは有る訳です。
誰だって弱気になることは有ります。

心を無価値感に乗っ取られていない子は、いちいち優しくない自分をダメだとは思わないし、弱気になっている自分がダメだとも思いません。

価値有る自分が感じたのだから、自分の感情にも肯定的なのです。

無価値感に苛まれる子は、次から次に「感情」が湧き出す度にダメ出しをすることで自分を更に傷つけます。

生きる限り感情は湧き上がり続けます。

心の中に重大な「無価値感」が有る限り、感情が動く度に、自分で自分を傷つけ、心は傷だらけになってしまいます。

生きづらい人は傷だらけなのです。

生きづらさに気が付いて、
その生きづらさを手放そうと思うとき、
自分と向き合うことが必要です。

自分と向き合う中で、自分を変えようとする方向に迷い込む人が多々あります。

自分を変えようとすることは、今の自分ではダメだ、とまたしてもダメ出しをしている状態です。

生きづらさの根っこは、「感情」を否定され、「存在」を否定されたことに有ります。

生きづらさを手放そうとしているのに、優しくなろう、強い自分に変わろうとすることは、

自己否定の無限ループにはまり込んでいる状態です。


私達はもともと価値有る存在です。

ただ、幼い頃に否定的な扱いを受けて、自分には価値が無い、と思い込んだに過ぎません。

生きづらさを手放すことを願うなら、

果てしない自己否定のループを断ち、

変わろうとせず、

ひたすらそのままの自分を受け入れて欲しく思います。

これまで、自分で自分にダメ出しをして、嫌と言うほど傷つけて来たのです。

もう自分に優しくするフェーズです。

優しくない自分も、弱い自分も、

それでいい、と思えたとき、

生きづらさを手放した、新しい自分に、

変わるのだと思います。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム





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