怒りは弱者に向けられる

幼い頃に、自分の感情を抑え込んで親の感情を優先しなくてはならない環境で育った人は、

自分では抱えきれない程の、怒り、を心の奥に貯め込んでいます。

泣きたくても親が自分に対して、笑う事を求めている、と察するや自分の感情は放ったらかしにして、笑顔を作る様な親子関係だったのです。

幼い子供と、その親の力関係は、圧倒的に親が優位に立っています。

だから、幼少期に感情を抑え込んだことについては、子供に責任は一切ありません。

責任など一切無いにも関わらず、そんな環境に育った人の多くは、自分が悪い、と思ってしまうクセがついています。

親が何でもかんでも幼い子供のせいにして、責め立てたからです。

その親にも、親の感情を優先し、自分の感情を抑え込んだ幼少期があります。

その親も、何でもかんでも自分のせいにされ、責め立てられた過去があります。

つまり、その親には、自分を徹底的に悪い、と決めつけるクセがあります。

自分を徹底的に責め立てることは、とてつもなく苦しいことです。

その苦しさから逃れられるなら、何でもする位の苦しさです。

自分で自分を責めたてる苦しさに耐えかねた時、人は自分よりも弱い人間に怒りをぶつける様になります。

学校のいじめも、執拗なクレーマーも、ネット上の誹謗中傷も、煽り運転や無差別に人をあやめる行為も、

その行為に及んだ人の心には、自分で自分を責めたてるクセがあり、

自分で自分を責めたてる苦しさに耐え兼ねて、他者に向けて怒りをぶつける心理が有る、と思っています。

つまり、怒りの感情は暴発するのです。

通り魔事件の犯人は、捕まった後「むしゃくしゃしてやった」などと供述します。

「相手は誰でも良かった」とも言います。

供述は抱えきれない怒りが暴発した事を表しています。

「誰でも良かった」と言いながら、通り魔事件の犠牲者は、ほとんどの場合、女性、子供、老人、などの、犯人よりも弱いであろう、と思われる人ばかりです。

屈強な男性が通り魔事件の被害者になることは、ほとんどありません。

暴発とは言え、抱えきれない怒りは、弱者を選んで放たれるのが常なのです。

学校でのいじめの標的にされる子は、歯向かわない子、です。

そして、家庭内での虐待は、通常、標的は幼い子供です。

その親はかつて幼かった頃、感情を否定され、存在を否定され、親の全てを受け容れ、親を全面的に優先した事で、 

傷つき、心の奥には、否定され、拒絶される度に溜め込んだ、怒り、でいっぱいいっぱいになっています。

そこに、どれだけ怒りをぶつけても、歯向かわない存在が現れます。

歯向かわないばかりか、怒りをぶつけてもぶつけても、自分を慕って止まない存在です。

それが、我が子、です。

学校で歯向かわない相手を探すよりも、
通りすがりに自分より弱そうな相手を物色するよりも、

間違い無く、親優位の力関係です。

抑圧された怒りは、弱者に向かって放たれる仕組みになっていますから、

その親は、子供に怒りをぶつけます。

時には、直接的に言葉や体罰で、
時には、間接的な無関心、過干渉、過保護などの態度で、

その親は、自分が心の奥に溜め込んだ未消化の怒りを、消化しようとします。

しかし、溜め込んだ感情は、弱者にぶつける事では、消えることはありません。

その怒りが、誰に対する怒りなのか、を誤魔化さず見据える必要があります。

見据えたなら、その感情を感じ尽くします。

誰に対する怒りなのかを見据えて、その怒りを感じ尽くすことが、

抑えつけていた怒りを、正しい方向に返すこと、と言えます。

怒りは、弱者にぶつけることでは、消えません。

怒りの暴発は止まりません。

好戦的な人、威圧的な人、イジメる人、キレる人などと、

抑圧された怒りの感情は、密接に関わり合っている、と思っています。


怒り、はネガティブな感情の中でも、最も強く、激しい感情、と言えます。

強く激しいから、呑み込まれてしまうのですが、裏を返すと、

強く激しい感情だからこそ、自分自身で気がつき易い、とも言えます。

自分自身の、怒り、の感情から、

内面を見つめるアプローチは、

軽やかに生きる為に、

とても有効だと思っています。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム













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