映画「月」
目を逸らすことは許されないと思った。どう感じ、どう考えを持つのか問われていると思った。
陰鬱な雰囲気、残虐なシーン。何度も席を立ちたいと思ったけれど、目を逸らすな!と訴えかけてくるパワーのある作品だった。
鑑賞中は正直観なければよかったと思っていた。
しかし、観賞後の今は本当に観てよかったと思っている。
鑑賞直後はまだ鑑賞中の気持ちを引きずっていたように思う。衝撃がすごすぎて、何を訴えてきているのかイマイチわからず、咀嚼に時間がかかった。
ようやく頭が整理されてきたので、書こうと思う。
今作は実際にあった「相模原障がい者施設殺傷事件」をモチーフに書かれたフィクション小説が原作なのだそう。
私は鑑賞直後はただただ気分が悪かったのだが、それは残虐なシーンの衝撃が強すぎたことと、事件を起こす加害者であるさとちゃんの動機を聞いていても全く共感できていないように感じ、映像で見る残虐な暴力性をただ感じるだけだったからだ。
さとちゃんの人物像は、序盤から異質なものとして映っていた。
洋子宅での飲み会のシーンで、昌平が作るアニメーションの海賊がのっぺりとした顔の人を次々に海に落とすシーンがいいと言う。
海賊に落とされる敵の顔がのっぺりしていることに良さを感じており、自分の優生思想に正しさを感じていることがうかがえる。一見まともそうに見える。けれど、確実に狂気が見え隠れする。
だから彼は私とは根本的に考え方の違う人。こんな人は到底理解できない。そう思うのだ。
けれどゆっくり咀嚼していく中で思い出す。
終盤、さとちゃんと洋子が対峙するシーンがある。
洋子と昌平の夫婦は以前に、先天性疾患をもって生まれ低酸素脳症から障がい児となったわが子を亡くしている。そしてその子と暮らした3年間をとても大変で同じ思いはもうできないと、お腹に宿した子どもの出生前診断を受けて命の選別をしようとしていた。もの言えぬ胎児の我が子。
さとちゃんは物言えぬ障がい者は心がない、彼らは紙芝居も届かない、排せつ物で汚れたおむつを脱ぎ、便こねをする。訳も分からず他害し自傷する。
窓を閉鎖された暗い部屋で何年もベッドで胃ろうから栄養を取り、排泄する。そんな彼らを社会に必要がないから始末するという。
さとちゃんは、障がい児ならば生めないと考えた洋子に対し「洋子さんだって同じでしょ。」と同じ考えを持っていることを訴えかける。言葉を受け「違う…」と言いながら洋子はさとちゃんの中に自分を見ていく。
洋子が洋子に問いかけていく。
「家族にこんな人たちがいて、愛おしいってハグできる?」
「自分がこんな人たちになりたい?」
洋子の本音である。
障がい児とともに過ごした3年、働く施設で目の当たりにする現実で
綺麗事では済まされないことを知っている。
だけど洋子は、それでもあの人たちを傷つけるのはダメだという。
本音では自分は障がい者になることも、その家族になることも嫌だと思っている。自分はわが子の命の選別をしようとした。
けれど、それでも生きている彼らの命は理不尽に奪われるものではないと思っている。
私も同じだと思う。洋子の本音、それからさとちゃんの思想に共感できる部分が実はあったのだ。
私は医療職なので、実際にそういった施設の現状を目の当たりにしている。
現実を知っている。
だから、洋子から洋子への問いに対して、私が心の中で思っていることを、口に出して答えたくない。
自分の建前と本音。
映画を通し、見て見ぬふりをしている自分の感情と向き合うこととなった。
「月」
タイトルにもなっている「月」
月は闇に隠れ見えなかったものや、明るくきれいな昼の世界で蓋をして見えないようにしていたものを照らし出す。
映画の中では、森の奥深く闇に隠された障がい者施設の現実があらわになる。
そして自分が今作を通して感じる本音の部分。
この映画はまさに「月」のような映画だと思った。
私もよく思うのだが、昼間の自分と夜の自分は考え方が変わる。夜はどちらかというとネガティブな感情が表に出やすく、不安になったり、考えが良くない方向へ向くことが多いのだ。
それが過度な心配や不安であった経験から、夜に考え事をするのはあまりよくない事と思って控えてきた。
でも、この映画を観て、そうじゃないのかもしれないと思う。
月が照らす昼間のまぶしい世界では見えなかった夜の感情。これもまた、自分の現実なのだ。
そんな感情に蓋をして綺麗ごとだけを並べていくら良い方向に考えても、不安や心配を抱えているのも自分の事実なのだ。現実なのだ。
月が照らし出すそんな感情を知って向き合うこともたまにはいいな。そう思った。
衝撃が大きかった作品ではあったが、鑑賞出来て本当によかった。
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