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【4】ジョン・デューイ 民主主義と教育の哲学(岩波新書)/上野正道

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4.1 プラグマティズム

 日本語で「実用主義」「実際主義」などと訳されることが多い。これはギリシャ語で「行為」「実践」「実験」「活動」などを意味する「プラグマ,Pragma」に由来する。真理や観念を人間の行為や実際から切り離すのではなく、行為や探究の実践のプロセスとその結果の観点から理解しようとする立場である。
 「心が最も受動的で、実在を映し出しているだけの場合」という“主知主義”を否定し、知識(を得ること)を「行為者性の一側面」「一種のすること(Doing)」に関連づけた。

4.1.1 パースのいう「探究」

パースは、真理や知識というものが、行為に先立ってあらかじめ決定されるのではなく、実際の行為とその結果によって決められるとした。真理や知識は絶対的、不変的、客観的な世界に対応するものではなく、改訂・誤りが常にあり、弾力的で可謬的なものである。

可謬的(かびゅうてき):パースによって提唱された可謬主義という認識論上の主張。これは、人間が獲得できる知識は、たとえ現在確実な真理とみなされていても、最終的な真理とはみなすことはできず、常に誤りが発見され修正される可能性を残すものであるという主張。

パースによって「探究」という概念が示されたことも重要なポイントである。ではパースのいう「探究」とはどのようなものなのだろうか。本書では以下のように説明する。

「探究」とは、私たちが「疑念」を取り除いて信じる状態に至ろうともがくことであり、その目標は「信念」を安定させることにある。探究者は「安定した信念」であればどんなものにでもしたがうのではなく、理由や根拠のある「安定した信念」にしたがうのである。ゆえに、真理が引き出されるのは、私たち自身の探究や根拠づけ、主張をともなう「実践」をとおしてである。

ジョン・デューイ 民主主義と教育の哲学(岩波新書)/上野正道

 探究の行為というのは真実を突き止め、真理を示すことではなく、真理をもとめ真実を明らかにし続ける行為に意味がある。その時点で真理と謳われたことであっても、時間の経過や新たな探究者によって新たな真実に到達し、安定した信念にしたがうのである。ちょうどヤドカリの引越しと同じように、新たな貝を探し続けるように。

4.1.2 ジェイムズのいう「経験」

本書では以下のように説明している。

ジェイムズによると、人間が何かを経験している、まさにそのときというのは、対象に対する反省や意識に先立って、端的にそれを経験している事実があるだけである。意識する「私」と、意識される客体とが分離される以前の経験そのもの、すなわり自己の反省的意識によって認識が生じる前の経験それ自体のことである。ジェイムズは、主観と客観の区別の前に起こる、この未分化な状態の直接的な経験を「純粋経験」と呼んでいる。

ジョン・デューイ 民主主義と教育の哲学(岩波新書)/上野正道

 ジェイムズもパースと同じように、知識や経験は可謬的であり、人間の何かに対する経験というのは、我々のイメージする対象に対する反省や意識に先立って、端的にそれを経験している事実が横たわっているだけである。反省や認識が生じる前の経験それ自体を「経験」と称し、間違いであるのか真実であるのかわからない状態の中で、結果として失敗であれば次からはそれを避けるであろうし、うまくいきそうだということであれば、それを継続もしくは改善していくであろう。その過程こそが経験なのだという。

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なみお
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