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もうやってたかもしれない説

ここ数日の記事に書いてやろうとしてたことって所謂「認知行動療法」の分野なのでは…ということに気付かされました。自分の記事を少し時間をおいてから読み返すと「ここ物足りないな…」「この流れにここは不要」「もっとこういう感じの方が言いたかったことがしっくりくるな…」の推敲的な目線に加えて

「いや…この異常だと思っていた感覚、何もおかしくないな?」

「書いている時はオラオラどけどけ気分で書いてたけど読み返すとかわいいもんだな…」

「気落ちしてどんよりした泣き言を書いた割には言うほど大した体験ではないような…」

みたいな感覚を覚えてたんですけど、これでいいのかもしれない。正解かどうかは知らないですけど。真っ只中にいるときの感覚を、少し時間おいてから眺めたときに思うことに変化や気付きがあれば。OKじゃない?Noteくんありがとうな。

ちなみに変化と言っても、共感はある。これ間違っていたな?認知歪みすぎじゃん的な否定的な感覚ではなく。「いやそれな。そんなこと感じたよな。けど…そう思ってしまうのは当然の流れだったんじゃないか?」みたいな感じ。渦中にいるときとそれを書き出しているときって「この異常な感覚どうにかしてくれ」みたいな「自分がおかしいんだ聞いてくれよ…」という感覚もあるので、そこが補正される感じかな。今のところ。

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認知行動療法の理論というかメソッド的に説明されても面倒そうが先走って、目が滑ってしまい何も頭に入ってこなかった。 例えばですよ、例えば、「問題を書き出す、対処を書き出す、結果を書き出す、気付きを書き出す」みたいな能書き的なものをつらつら書かれても、面倒くさ…としか思えなかった。”その通りにやらなければならないという縛り”が逆にストレスに感じて拒否反応があった。食わず嫌い的な。

何について書こう…ってまず構えるし、何をお題にしたらベスト?どう書いたら綺麗に纏まるか?っていう見せるための褒められるための視点になっちゃうんですよ私(歪んでますね)第三者に宿題出されてそれならやるけど?みたいなスタンスなので、1人でやったところで正否も分からないし端からやるわけがなかった。

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ここ数日Noteに書いてたようなことで良さそうなら嬉しいんだけどな。構えず、ぬるっと出来るし。何より私は正否があるものということに囚われると言語が制限されてくるのでこのスタイルでいいのかも。何か知らんけど自分がちょっとスッキリするからやる…どなたかが読んで下さるから続ける…今はそれでいいじゃないか。

一旦感覚を覚えてしまえば「ああ…こういう感覚を味わうことをやっていけばいいんだな」って分かる。そういえば私って機器でもソシャゲでもマニュアルやチュートリアルを読まないタイプなんですよ…触って感覚や構造を掴んでいくタイプ。嗚呼……

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【参考動画】

今朝この動画を見て気付かされました。益田先生ありがとう…!

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